「遊びに来たんか
....遊びに来たんやろ」
『泥の河』きっちゃんの台詞
10年の沈黙の後このたび公開された『FOUJITA』 を、小栗康平の戦後3部作と呼ばれる『泥の河』『伽倻子のために』『死の棘』に続き4部作目として加えられるかと問うならば、そう呼んで差し障りがなかろうと私は思う。メディアや画面の構成を含む広い範囲での技術面の変化から、『FOUJITA』を戦後4部作目に加えるのは無理があると言われる専門家は多数おられるかもしれない。しかし私は、さらに言うならば『死の棘』を除く最初の二作と最新の『FOUJITA』を、戦争という文脈に位置する同テーマと言っても差し支えなかろうとさえ思っている。それが映画を見た印象だった。
「『泥の河』から『伽倻子のために』を通過して私の映画は大きく変化していって『FOUJITA』にまで至るのですが、場所、場の持つ意味とか力ですね、それがどんどん深くなってきているように思います。(『泥の河』DVDブック)」、と監督自身が言うように、小栗康平監督の全作品においても場所が大きなテーマとなっているが、「戦後三部作」とよばれる作品は、そのどれもが、ある場所に本来在る、または在った(者)がどこか別の場所へと引き裂かれるように、または追放されるように、さもなければ逃避せざるを得ない程に追い込まれる姿が描き出される。そこに大きく影を落としているのが戦争である。
そのような意味において島尾敏雄原作『死の棘』は戦後文学の位置を占めてはいるものの、小栗康平作品『死の棘』は、夫婦が本来在った場所から追放してしまったのは、戦後という文脈よりもむしろ人との関係性であることは明らかで、その要因が夫婦関係の闇をあぶり出し、しかし一方で同じ要因によって夫婦の絆を強く結びつけているのではないかという印象をもたらす作品である。
妻が執拗に繰り返す攻撃の手を緩めぬ質問の責め苦に夫は叩きのめされ、止めようにも止められない堂々巡りの出口の見えない闇に双方が投げ出され、責める側も責められる側も精魂尽き果てる。それでも、くたびれ果ててもなお、互いが手を握り合っている。死の際まで互いに追いつめられながらも、相手がいることで自分が在る場所を見失わぬよう確かめているような印象を持つ。
それに対し前作の二作『泥の河』、『伽倻子のために』、そして最新の『FOUJITA』に描かれる人びとやものを本来在った、あるべき場所から引き剥がしてしまうのは国家の戦争だった。
『泥の河』は戦後の経済復興、高度経済成長の波にうまく乗ることができなかった社会の底辺に生きる人びとの暮らしが描かれている。鉄くずを集め、馬に運搬させ生計を立てていた男は、自動車の購入目前に、馬にひっくり返された荷台の下敷きになって馬共々にあっけなく息絶える。河岸のほったて小屋でうどん屋を営む男女は、戦後の焼け野原に立った闇市で知り合った。貧困と戦争の記憶から逃げるようにふたりで構えた店だが、男には残した妻が在った。妻は死の病床で、逃げた男が若い女とつくった子(のぶちゃん)に会いたいと願う。のぶちゃんが暮らすうどん屋の対岸に何処からともなく流れて来た舟には、同じ年頃の少年きっちゃんの家族が暮らしていた。夫を亡くしたきっちゃんの母は、その場限りの男に身を委ね、その報酬で家族の生計を立てる以外に生きる術を持ってはいない。のぶちゃんが暮らすうどん屋ときっちゃんの舟は、人びとが通行する道路から河岸へと低い位置へ下りる。自動車が行き交う交通のなかに生活基盤を持つ人びととその「下」にいる者たち、暮らしの属する位置関係が、社会的な位置関係を画面によって捉えている、と小栗監督は美術監督であった内藤昭の修練を重ねた確かな技能を評している。下に暮らすのぶちゃんのうどん屋より、さらに低く位置する川面に、きっちゃんの舟は揺れている。戦後の経済成長から取り残された誰もに深く黒い影を落とす戦争の爪痕。
自分が暮らす場所とは違う場所に暮らすきっちゃんに、のぶちゃんは興味を持って躊躇しながら近づいて行く。
気付いたきっちゃんが声をかける。
「遊びに来たんか。...遊びに来たんやろ」
そこに暮らすものではない、生活ルールが異なるかもしれない訪問者(異邦人)に対し、開かれるきっちゃんに、デリダが言う「歓待」の本質を見る気がする。きっちゃんにあるのは、決して「寛容」といった高みに立った類いのものではなく、場合によっては内部崩壊の危険を孕む、あるままに開かれる場所である。
迎え入れたきっちゃんも、訪問したのぶちゃんも、距離が接近したことによって、「違い」に気付いてしまう。
かつてあった場所も、今はない場所も、糸を編み込むように記憶の暗がりに封じ込め暮らす日々。糸のほつれをたぐり寄せると、たちまちほどけて無くなりかねない生活のあやうさを子供たちは分かっている。
場所をなくした者たちは、高度経済成長とくくられる枠のなかに住むことを許されない。経済成長を象徴するように泥の河には、のったりと姿態をくねらせる巨大な影〈お化け鯉〉が棲んでいる。のぶちゃんときっちゃんは互いが同じ場所にはいられないことを既にわかっている。
呼んでも届かず、追っても着かないきっちゃんの舟は、泥の河を降下し、のぶちゃんから離れてゆく。
〈お化け鯉〉の息づく気泡が泥の河底からゆっくりと上がっている。
参考文献: 『じっとしている唄』 小栗康平 白水社
『泥の河(DVDブック)』 小栗康平 駒草出版
『歓待について-パリのゼミナールの記録』J・デリダ 広瀬浩司訳 産業図書
『テロルの時代と哲学の使命』J・デリダ他 藤本一勇他訳 岩波書店
関連ブログ: 『映画から映画へ』菩提寺光世 rengoDMS