経済学の従来的な人間観といえば、いわゆる「経済人」の合理性モデルが主流であった。経済人の特徴を簡潔に述べるとすれば、その行為動機における打算的な利己性の仮定である。この経済人の概念については、昔から非現実的な人間像であるとの批判が繰り返されてきた。人間の心的作用における理性的推論の役割を過度に強調する経済人は、きわめて一面的な人間の抽象化であるというのが多くの批判に共通する論点である。しかしながら、そうした批判にも関わらず、合理性を軸とする利己的な個人の意思決定や行為連関の分析は、経済分析の歴史を通じて今日まで基本的な研究枠組みを提供してきたといえる。
経済人の合理性モデルは今日においてもなお強力かつ有益な行為分析モデルのひとつであり続けている。そのことに間違いはないとしても、近年の経済学研究は経済人のモデルを相対化する方向に進んでいる。本稿では、そうした近年の学問的動向を経済学における人間観(行為分析モデル)の多様化の進展として論じてみたい。
以下では、人間観の特徴の違いをいわゆる「知・情・意」からなる心的作用の3区分に沿うかたちで整理していく。この3区分は、現代経済学の人間観を類型化して整理するための簡便な見取り図として役に立つからである。この見取り図に照らすと、相異なる行為動機を主軸とする3つの人間類型が鼎立している経済学の現状が明瞭に理解できるであろう。
ここで知・情・意とはそれぞれ、「知性」と「感情」と「意志」とを指している。これら3つの要因(その複合作用)は人間の心の作用を説明する基本的な図式である。「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」という『草枕』(夏目漱石)の冒頭の一節が、この同じ図式を下敷きにしていることは有名である。経済学の行為分析モデルをこの図式に当てはめて3つに類型化し、現在の研究領域との関連を整理すると次のようになる。
①「理知モデル」=ミクロ経済学/ゲーム理論など
②「感情モデル」=行動経済学/神経経済学など
③「信念モデル」=経済社会学/経済人類学など
知性の作用を重視する人間類型の典型は理性的推論に立脚する従来型の経済人である。ここではそれを「理知モデル」と呼ぶ。経済人であることの最大の特徴とは、最適化する個人として表現できる行為動機の形成論理である。何を最適化しているのかといえば、広義の自己利益であり、その利益から得られる主観的な満足としての効用である。ここで広義の自己利益といっているのは、いわゆるわがままで自己中心的な人間像とも、あるいはまた受け身的で享楽的な人間像とも最適化する個人は違うという意味合いを含むからである。経済人とは一般に、他人の幸福を一切考えない非社交的かつ非協力的な個人であるとの理解が流布しているが、これは完全な誤謬である。経済人は他人の幸福を自己の効用の内に包摂することができる人間である。利他性を含む広い意味での利己性を打算的に追求する個人こそが経済人である。この打算的な利己性のことが一般に、行為の合理性と呼ばれるものである。行為の合理性の特徴とは、合理性の保持および効用の最大化である。合理性の保持とはすなわち、行為動機に一貫性があり、一連の意思決定においてつねに矛盾がないということである。また効用の最大化とは、ある時点での実現可能な選択肢を比較秤量しつつ、結果として期待できる最大の効用をつねに志向するという心的傾向のことである。こうした特徴を持つ理知モデルは20世紀後半以降、様々な修正を受けつつ今日に至っている。修正のための主要な議論は、人間知性の限界の認識であったといえる。情報の非対称性の問題や限定合理性の問題というかたちで理知つまりは理性的推論の限界を取り入れた修正版の理知モデルが考案されている。
次に感情の作用を重視する人間類型のモデルを見ていく。この型の定式化は「感情モデル」と呼ぶことができる。その典型は、近年急速に研究成果の蓄積が進んでいる行動経済学等(神経経済学や実験経済学)の研究領域である。それらは心理学や神経科学の分野の知見や実証的な研究手法を取り入れることで発展してきた比較的新しい経済学研究の流れである。その特徴は、感情・直感・無意識などの要因が意思決定に及ぼす影響を重視している点である。従来の経済学は人間の理性的推論に注目する一方で、感情や直感さらには社交性や協調性などが行為のための誘因として大きな影響力を発揮する可能性を軽視していた。しかし近年の様々な実験結果は、感情などの要因が利他的行為への誘因として重要な役割を果たしていることを明らかにしている。そうした実証的な知見に基づき、とくに感情や直感といった要素が意思決定過程に作用する際の一般的な法則性を特定することへの注目が高まっている。
最後は、意志の作用を重視する人間類型である。このモデルでは、道徳規範や文化的慣習などの特定の価値体系に対する人間の信念の影響に焦点を当てる傾向がある。それゆえそうした人間観を「信念モデル」と呼ぶことにする。行為動機の形成基盤として信念の役割に焦点を当てる分析はこれまで、経済学と隣接諸科学との境界領域において進められてきた経緯がある。経済社会学や経済人類学がその代表的な領域である。さらに歴史研究における社会経済史の知見もその列に加えることができる。信念モデルでは、行為の動機や帰結に関する諸個人の主観的意味づけの理解の重要性が強調される。そうした意味づけがあってはじめて行為の目的や手段が確定されると考えるからである。とくに宗教倫理や文化的慣習に対する信念が人びとの意志の堅固な基盤としては重要である。特定の価値体系の認識枠組みの受容こそが信念を形成するのである。人びとの日常生活における利害関係それ自体を信念が下支えしていることを信念モデルの研究は実証的に明らかにしてきている。
こうした3つの異なる人間類型に基づく行為分析モデルが競合しつつ鼎立している状態が現代の経済学研究の構図である。各モデルの人間的側面が互いに相補的に機能するような人間観、すなわちより一般な行為分析モデルを構築していけるかどうかが今後の経済学研究のひとつの鍵になるかもしれない。