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第50回 カントの抽象的な道徳法則に実践的な意味はあるのか?  仲正昌樹

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 ジョン・ロールズを始めとする現代のリベラルな政治哲学は、カントの義務論を哲学的ベースにしているということがしばしば言われる。しかし、「汝の意志の格率が常に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」、という形で表現されるカントの定言命法は、抽象的すぎて分かりにくいということはさておいても、現実に生きている人間が、厳密な意味でこのカントの道徳哲学に従って行為することはほぼ不可能だ。そのことを承知のうえで、多くの哲学者たちがカントに引きつけられるのは何故なのか?単に、カントは有名なので論文のネタにしやすいだけのことかもしれないが、だとしても、どうして、プラトン、アリストテレス、ベンサム、ミルのような分かりやすい理論ではなくて、カントでないといけないのか、という疑問は残る。そうしたカントの道徳哲学の魅力について真面目に考えてみよう。
 カントにとって、道徳的な行為とは、身体を支配する傾向性(物理的な因果法則の帰結として生じてくる自動化された行為のパターン)や欲望に縛られることなく、自らの理性によって、自分が従うべく道徳の格率(Maxime)を発見し、それに(他者や環境によって強いられることなく)自発的に従うこと、つまり 自己を律することである。この意味での「自律 Autonomie」という形で、道徳性と自由が一致するところにカント哲学の特徴がある。
「自律」の状態に至ることは、簡単そうで難しい。例えば、道に倒れている老人がいたので、助けようとした。しかし、そこに世間からいい人だと思われたいとか、助けないと世間体が悪いといった、動機が働いているとすれば、それは純粋に道徳法則に従った行為とは言えない。他人によく見られたいのがいけないのであれば、隠れたところで行う善行であればいいのではないか、と考える人もいるだろうが、それではダメなのだ。カントの基準からすれば、他人が喜んでいる様子をこっそり見て、密かに満足しようとする、とか、自分が善行を行ったことに満足しようとする、というような善良な動機であっても、満足を得ようとする傾向性に基づくものであり、純粋な道徳行為ではない、ということになろう。"善人"であらねばならない、という共同体の掟のようなものによって、"善人"であることを習慣によって強いられているだけで、そこに自発性はないかもしれない。
では、どのような心の状態で行動したら、道徳的に行動したことになるのか。カントはその状態を具体的に記述していない。というより、道徳的判断が、理的因果法則を完全に超越しているとしたら、その時の心身の状態を、(物理的因果法則に対応しているという意味で)"客観的"に記述することは原理的に不可能だろう。そこで、道徳法則に従って行動していると言えるための、最低限の必要条件として、カントが定式化したのが定言命法だ。
定言命法のポイントは、時空間や環境によって、左右されない、言い換えれば、普遍的であることだ。他人によく思われたいので親切にするのだとすれば、「他人に見られている」という条件がなかったら、親切にするかどうか分からないことになる。普遍的な法則であるとは言えない。他人が幸福になっている様子を(影から)見て満足したいのでその人の為にすることをするのだとすれば、その様子を見ることができない、あるいは、体調とか気分によってそういう欲望が働かないのであれば、その行為をしないかもしれない、ということになる。やはり、普遍的ではない。こうした条件付きで、"道徳的行動"へと動機付けるのが「仮言命法」である。
仮言命法が、私たちの身体を支配する物理的因果法則の影響を受け、移ろいやすく、主体を因果法則に縛り付けたままで自由にしないのに対し、定言命法は、無条件で「常に正しいこと」を自発的に実行する主体を召喚する。逆に言うと、カントの道徳哲学は、仮言命法を徹底的に排除しながら、定言命法の定式をクリアする、普遍的道徳法則の可能性を追求する。
こうしたカントの道徳哲学の探求は、人間には不可能な神の領域に属する、道徳性の追求のように見える。カントの家系が敬虔派(Pietismus)のプロテスタントであったことをもって、彼の道徳哲学は、世俗化された敬虔派の教理だという言い方をする研究者もいる。
ただ私は、カントの道徳哲学を無理にキリスト教の特定の宗派の教えに結び付けなくても、彼の完璧主義的傾向をある程度理解することはできるのではないか、と思っている。一八世紀の西欧諸国の啓蒙主義の知識人の置かれた状況、彼らの知的・道徳的危機感を思い浮かべると、カントが地上に生きる人間には到達できない道徳法則に拘った"動機"が見えてくるのではないか。
啓蒙主義の時代は、カトリック/プロテスタントを問わず、キリスト教の影響が急速に弱まっていくのに伴って、キリスト教的共同体の中で培われた倫理的慣習も崩れていった。ヒューム(一七一一―七六)やアダム・スミス(一七二三―九〇)などスコットランド啓蒙主義者は、市場での交換関係を中心に形成されつつあった市民社会的道徳に注目し、フランスの啓蒙主義者エルヴェシウス(一七一五―七一)やドルバック(一七二三―八九)などは、唯物論的な視点から見た人間本性を明らかにし、人間の欲求を最大限に充足し、合理的に統治できるシステムを算出しようとした。
様々な新道徳創出の試みはあったが、いずれにしても、神への信仰に根ざしたキリスト教的連帯ほど強固にはなりえなかった。ゲーテ(一七四九―一八三二)の戯曲『ファウスト』(一八〇八、三三)は、神が消えた世界にあって、目的を失い、悪魔との契約にすがりたくなるほど、不安に駆られる人間の在り方を描き出したと言える。
共通の道徳原理が失われていく危機の中で、自分自身も含めていかなる人間も完全に信じ切ることができないと痛切に感じられる時、カントは、哲学的に先鋭化した問いを発せざるを得なかったのではないか。人間はどれだけ環境に左右されやすいのか、自らの自由意志によってどこまで道徳的であろうとし続けられるか、と。そういう問いに拘ることでしか、カントは正気を保っていられなかったのではないか。若い時はカントの拘りがなかなかピント来なかったが、今の私は、そういう視点から彼を理解できるような気がしている。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害