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第57回 〈ハンナ・アーレント 3〉アーレントと帝国主義  仲正昌樹

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cameraworks by Takewaki

 
『全体主義の起原』は、全体主義が誕生するまでの、ヨーロッパの「歴史」を描いた著作であり、広い意味での歴史書であるが、ところどころ哲学や文学のテクストが参照され、アーレントならではの解釈が示されている。特に興味深いのは、第二巻『帝国主義』での、西洋人の国民国家的アイデンティティ形成と植民地の関係をめぐる分析だ。
 周知のように、一九世紀の帝国主義は、三十年戦争の頃から次第に輪郭が形成され、ナポレオン戦争期にほぼ現在の形に至った各「国民国家 nation-state」を基盤としている。「国民国家」とは、ドイツ人、フランス人、イタリア人などの文化的アイデンティティを共有する集団である「国民」と、統治機構としての「国家」の範囲がほぼ一致した状態である――一〇〇%の国民国家は実在しない。
 一九世紀になって工業化が進むと、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立が次第に深刻し、「国民」として一つにまとまるのが難しくなる。しかし、海外に植民地を獲得すれば、原材料、安い労働力、製品の市場を確保したことになる。植民地から搾取した利益を国内に還元し、労働者の待遇を改善すれば、彼らの不満は弱まる。それどころか、近隣の諸国と争い、現地人を制圧して、植民地を拡大する政策に、労働者を含めた国民全体を動員できるようになる。
 国内では、まともに仕事につけないならず者、秩序を乱すモブというしかない層に属する者でも、植民地に派遣され、現地人管理の役目を任されると、そこで暴力性が生かされることもあり得る。ポーランド出身で、船乗りとしての経験を経て英国で作家になったコンラッド(一八五七-一九二四)の『闇の奥 Heart of Darkness』(一八九九)の主人公クルツ(Kurtz)は、そういう人物だ――フランシス・コッポラの映画『地獄の黙示録』〈一九七九〉のカーツ(Kurts)大佐のモデル。
 ベルギーの貿易会社に雇われて、アフリカで象牙の調達に当たっていた。その彼がいつのまにか、彼のもとに象牙を持ってくる黒人や他の白人から神のように崇拝されるようになっていた。貿易会社の依頼で、クルツの様子を見るため奥地を訪れた語り手は、野生の人たち(wild men)の「心 heart」と接触したことによって原始的感情を揺さぶられたクルツが、西欧的な理性の枠から次第に逸脱していったことを知る。
クルツには、もともと人々の心を捉える才能があって、それが現地人との出会いで、最高度に高まったということかもしれない。語り手は、クルツの心を襲い変容させたものを、「人跡を許さない闇の奥地から流れ出る光の鼓動the deceitful flow from the heart of an impenetrable darkness」と表現している。タイトルになっている「闇の奥 heart of darkness」には、人の心の奥に潜む「闇」の中核部という意味と、クルツがその「闇」を発見した奥地という二重の意味がある。
 コンラッドの小説自体を素直に読むと、クルツは植民地支配の先兵というより、そこから逸脱し、現地人と共に反逆した人間のように見えるが、アーレントは、クルツのモブ性、生まれ育った地で自分が無価値な存在であると思い知らされ、彼の崇拝者であるロシア人の青年から、「胸の奥底まで虚ろ hollow at the core」であると言われていることに注目する。彼のように自分自身に価値を見出せない人間は、周囲の力関係に影響されやすい。支配されることに疲れ切っていたから、そこから離脱できそうな機会があれば、何にでも手を出そうとする。他者の命にはいかなる重みもない。
 彼らは国民国家の中に形成された市民社会からはみ出した人間ではあるが、はみ出していながら、ある意味、本国の力を背景として暴力的に振る舞う人間として、植民地に存在することで、意図せずして、植民地支配に貢献する。そして、成功すれば、そのメンタリティを伴って本国に帰還することになる。
 こうした空っぽの人間が、植民者として成功を収めた様子を描いたのが、英国の植民地インドで、英国人の美術教師夫婦の子として生まれたキプリング(一八六五-一九三六)の『ジャングル・ブック』(一八九四)と『続ジャングル・ブック』(一八九五)だ。周知のように、狼に育てられた人間の子モーグリは、狼と同じ野生の力を持たないけれど、人間としての能力も発揮することで、狼の一族の戦いに貢献して、偉大な仲間として認められ、宿敵であるトラのシーア・カーンを倒して、いつかジャングルの支配者になる。
 モーグリは、市民社会から疎外されながらも、野生の人たちに交じって生活する内に彼らの野生の力に見えていたものを身に付け、それを利用できるようになったカーツ的存在、あるいはむしろ、二つの世界を自由に行き来し、自分の両義性を生かして支配力を発揮する術を見出した、カーツの発展形と見ることができよう。
 これと並んで有名なキプリングのジュヴナイル小説『キム』(一九〇一)では、もっとはっきりと植民地主義が現れている。イギリスの植民地インドで、英国人の孤児として育ったキムは、様々な土着勢力が存在し、ロシアなどの他の西欧諸国の人間やチベットのラマ僧なども行きかうインドで、様々な人々とうまく関係を築いてサバイバルする術を身に付ける。いろんなところに溶け込める彼の才能に目を付けた英国の諜報機関のエージェントにスカウトされて、工作員としての訓練を受け、中央アジアの支配をめぐって英国とロシアの間で繰り広げられる「大いなるゲーム Great Game」の全容を知り、そこに自分の使命を見出すことになる。
 アーレントはキムが、第二の祖国であるインドのために戦うというような素朴な正義感で動かされているわけではなく、ゲームの「偉大さ」、その輝きに魅入られ、「ゲーム」に賭けることこそが「生」であるとさえ感じるようになることに注意を向ける。「闇の奥」に魅せられるままに動いていたクルツの意識が、「闇」の力を「ゲーム」に転換しようする祖国の構想と同期化したわけである。
 アーレントは、この「大いなるゲーム」の中に生き甲斐を見出した人間の生き方として、アラビアのロレンスで知られるトーマス・エドワード・ロレンス(一八八八-一九三五)の自伝『知恵の七柱』(一九二六)を読む。彼は「イギリス的自己English self」から自由になるため、アラビア人の間に溶け込み、彼らと共に戦おうとするが、アラビア人と同じように思考することはできないことを認めざるを得なかった。しかも、アラビア人の独立運動を本格的に支えるためには再び「イギリス的自己」を演じざるを得なかった。
彼はその葛藤を告白しており、映画『アラビアのロレンス』(一九六二)でもその葛藤が強調されるが、アーレントはそういう――祖国の側に軸足がある――境界的な存在であるがゆえに、「大いなるゲーム」に魅せられ、そこで重要な役割を担うことができたことを示唆する。
現在では、植民地に注がれる白人の"善意"に、コロニアルな欲望を見出すポスト・コロニアル的な批評は珍しくない。しかし、本人が抱えるアイデンティティの空虚さゆえに、野生の力に感応し、「大いなるゲーム」に巻き込まれ、主体化していくという構図で、コンラッド、キプリング、T・E・ロレンスという全然タイプの違う作家のテクストを連続して読む彼女のやり方はユニークだ。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害