loading

第14回 『ももクロ論-水着と棘のコントラディクション』補論1 清家竜介

_U2A0017_websize.jpg

 ネット上では、思いのほか好評を持って迎えられた本書ではあるが、ちらほら「難しい」という感想が見受けられる。

 人文書に慣れていない方のためになるべく易しく書こうとしたが、どうしても学術用語を使わないと説明し難い部分が多々あった。それに加えて、本書は、現代思想や社会学のワードをちりばめることによって、それらのワードと結びついた知の枠組みへと読者を誘うことも狙った。

 そういうわけで、多少なりとも「難しい」という感想がでることは、ある程度予測していた。そこで、本書を読むための手引きとして、数回に渡って、自著について簡単な解説と紹介を試みたい。

 私が執筆した第一部「ももクロはAKB48を越えるか?−−アイドル消費における鎮魂とカーニヴァル」は、通常のアイドル評論とは性格が異なっている。それは、〈ももクロ現象〉というアイドル現象を現代日本における"社会現象"として社会哲学的に理解しようと試みたからである。
 
 拙論は、高度経済成長を経た、日本の70年代中期から現在へといたる消費社会が生み出した想像力(以下、消費社会的想像力)と結びついた人々の「社会意識」を問題にしている。特にももクロ現象が、現代日本の消費社会想像力や人々の意識とどのように関係しているかを論じることが、拙論の基本的な主題である。

 すでに本書を読んでいただいた方はお分かりであろうが、本書の副題である「水着と棘のコントラディクション」の「水着」は、「AKB48グループ」の比喩である。AKB48グループは、PVや雑誌のグラビア等で一年中水着姿を披露しているので、この点に関しては多くの説明を要しないだろう。
 
 もう一つの「棘」は、「ももクロ」の比喩である。今春発売された『5TH DIMENSION』というアルバムで、ももクロは、頭部全体に棘を生やした"ドリアンマスク"でアイドルの命ともいうべき顔を覆い隠し、多くのアイドルファンを当惑させた。 

 同時代を生きるアイドルでありながら、両者の姿は全く対照的である。AKB48 は、消費社会が生み出してきた可愛らしいアイドル像の延長線上に存在している。かたや"ドリアンマスク"と呼ばれる『5TH DIMENSION』の姿は、はっきりいって異様なものだ。頭部全体を覆い隠し「棘」をはやした姿に、これまでの消費社会的想像力に囚われたアイドル像を解体する強烈な力を私は感じとった。

 本書は、従来のアイドルと異質な力を感じさせるももクロ現象の特徴を際立たせるために、消費社会的想像力の正統な嫡女ともいうべきAKB48との比較という手法を用いた。よって本書は、実のところ「AKB48論」になっているとも言える。

 また拙論は、消費社会のなかで育まれたアイドルという存在が、いかにして社会的に消費され機能しているのかを考える「社会的存在としてのアイドル」を論じるアイドル論にもなっている。

 本書を手にとっていただければ、社会現象としての「ももクロ現象」と「AKB48現象」さらには日本の消費社会に生じた「アイドル現象」を考える上での何らかのヒントを、多くの読者は手にすることができると思う。

 ところで、拙論は、小林よしのり氏、中森明夫氏、宇野常寛氏、濱野智史氏の対談本である『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書)に対する一人の新参のモノノフからの応答としての性格も持っている。 
 
 同書のなかで、宇野氏は、ファン参加型のシステムに依拠したAKB48現象に比較すれば、ももいろクローバーZは「昔のサブカルの良質な継承者」にすぎず、AKBのように社会現象として考察するに値しないものであると指摘していた。濱野氏も、ももクロはハングリー精神はあるがそれどまりで、人数が多いAKBに比べればすぐに飽きがくると述べていた。

 他方で小林よしのり氏は、ももクロをAKB48を脅かす存在であると恐れていた。中森明夫氏も、AKB48でないものを代表しているのがももクロであり、ももクロがこそがAKBに唯一対抗できるアイドルであると指摘していた。

 拙論は、小林氏や中森氏の指摘を私なりに引き受けて、ももクロがどのようなアイドルであるのかを捉えようとしたものでもある。中森氏が指摘したようにAKB48でないものを代表しており、それゆえAKB48とももクロを比較検討することは、両者の違いを際立たせるために極めて有効な手法であった。
                                (続く)

清家竜介

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害