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第28回 逆行ハ、順行ナリ 清家竜介

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ヴァルター・ベンヤミンは、未完の草稿・引用集でもある『パサージュ論』の中で、"19世紀の首都"としてパリを眼差している。
パリの希有な遊歩者であったシャルル・ボードレールのテキストに導かれ、ベンヤミンは、ガラスと鉄を用いることで出来上がった当時最先端の空間であったパサージュ(アーケード)を探索した。
そこでは、かつて店舗の奥にしまい込まれていた商品が、美的な衣装を纏ってショーウィンドウに陳列されていた。
ベンヤミンは、ガラス越しに栄える煌びやかな商品の輝きの奥に、時代の精神と闇とを透かし見ようとしていたのだ。

時代の精神と闇が露呈する現代のパサージュとは、いかなる場所であろうか。
そんなことを朧気に考えながらも、忙しくかつ慌ただしく日々が過ぎてゆく。

ジークムント・バウマンがいったように現代は、さまざまな領域で"流動性(Liquidity)"が高まっている。
それは19世紀パリの比ではない。
そんな奔流のような時間のながれに抗ってみたくなる。
時折、憂さ晴らしに町を歩いても、いたるところ看板広告だらけだ。
気まぐれにモニターを覗いて、ネットサーフィンをしてみる。
どのHPを訪れてもSNSを眺めてみても、広告が追いかけてくる。
クリック音を響かせるたびに、サイバースペースを牽引したカリフォルニアイデオロギーの理念が雲散霧消してしまうかのような心持ちになる。
かつて渋谷などを造型した広告都市は、すでにサイバースペースの深部まで浸食してしまっているかのように思える。
デジタル化したネットワークのなかでも、私達は広告のリズムとサイクルによって刻まれつづけている。
なかば脅迫的に視覚情報としての商品イメージが送り届けられる。

20世紀の首都の一つであったロサンゼルス、ハリウッド、シリコンバレーを有するカリフォルニアから発信されるイメージの奔流は、私達の消費の在り方を牽引してきた。
MTV世代である私は、物心ついたときから、映画のスクリーンやTV画面に映るそんな商品群(使い捨てのガジェット)とともに過ごしてきた。
私たちは一体どれだけのジーンズやスニーカーを履き潰してきたことか。
1980年代にはじまるバブル経済で沸騰した日本は「消費は美徳である」という黄金時代アメリカの標語を地でいってた。
この国では、カリフォルニアイデオロギーもフランス現代思想さえも、すぐにそれらを情報として消費させるマーケティングの技法を伴って流入してきた。

カリフォルニアイデオロギーのアイコンの一人であったスティーブ・ジョブズは、黒のハイネック(イッセイミヤケ)とリーバイス501(何故かケミカルウオッシュ感が漂う。錯覚でしょうか?)をまるで背広のように着こなしていた。足下は、当然ニューバランスM991でキメている。
プレゼンテーションを行うその姿は、解放とオルタナティブを求めたカリフォルニアイデオロギーの担い手としての正装だったのだろう。
その姿を見つめながら、デジタル技術を含めた複製技術が本当に解放のメディアであったのかという疑念が湧きあがってくる。

箱型の可愛らしいマッキントシュをはじめとする西海岸の薫りがするアメリカの商品群は、解放のアイテムだったのであろうか。
ジョブズは、彼らの指南書であった"Whole Earth Catalog(WEC)"を「紙のGoogle」と呼んだ。
インターネット時代で、最も成功したWECの後継は、確かに検索エンジンGoogleであり、amazonに代表される通販サイトにほかなるまい。
ジョブズが世に送り出した‎iPhoneは、モデルチェンジを繰り返し、行列をなした人々がそれを買い求める。
‎iPhoneを片手にSafariを立ち上げ、Googleで検索し、amazonで商品を購入する。この一連の行為の間がブラックボックス化しているわけだが、その箱の中には当然、グローバル化した無数の見えない繋がりが存在する。
そんなサイバースペースの狂騒から離脱し、改めて五感を研ぎ澄まして街路を歩いてみることも必要だろう。
できれば見慣れた広告都市の光景から離れて、迷子になってみたい。

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そんな気分で過ごしている頃に、師匠に「それでいってみましょう」といわれ、南青山にある英国靴販売店に案内された。

暗闇を手探りで進むとき、先行する仲間の足音が何よりも頼りになる。

多くの有名ショップがある南青山のメインストリートから折れて見慣れぬ路地を歩いていくと住宅街があった。少しばかり歩いてゆくと、こぢんまりした店構えで、英国風の佇まいをした"Lloyd Footwear(ロイドフットウェア)"というお店に着いた。
とうぜん私には縁のなかった店構えである。

扉を開て店内に入った。
できた頃からさほど変わっていなさそうだが手入れが行き届いた英国風と思われる内装が、時の流れを逆撫でするかのような反時代的な空気を醸し出していた。
アンティークのガラス張りのショーケースに飾られた紳士靴のサンプルが、ポリッシュされ焼けて脱色し、妖艶な輝きを放っている。
展示されてある商品を一通り眺めたあと、昔からその店に出入りしている師匠に、只者ではない雰囲気を漂わせた店長の浦上氏を紹介してもらった。
早速、足のサイズを採寸してもらった。
きちんと測ってもらうと、自覚していたサイズより少し小さかった。
西方の海岸沿いで生まれ育ち、少々斜めでカジュアル志向の私は、多くの人がまず入門として手に取るストレートチップを避けて、黒のUチップを選択した。
お世話になっている編集者がいつぞや履いていたUチップが、何だか堂に入っていて気になっていた。

西海岸の影響下に育った私たちの正装であるスニーカーを脱ぎ捨て、英国ノーザンプトン製の本格革靴に履き替えてみる。

それは迷子になるための、一つの通過儀礼だったのだろう。

熟達した受験生が鉛筆を指の間で回転させるかのように、真新しい革靴を氏が手のひらの上で回転させた後、足を通してくれた。
我流のカリフォルニアスタイルで過ごしてきたのもあって、手渡された普段使わない靴ベラの使い方も我ながらぎこちない。
少し恥ずかしくなって照れ隠しで笑ってしまった。
年に数度しか革靴を履かないこともあって、合皮か本革かもまともに区別できないレベルにあったが、その革のキメの細かさははっきりと判った。
しかし、ほとんどポリッシュされていなかった。
インソールに"England"製と記されているが"Lloyd Footwear"とも記されていた。

最初の体感が少々きつめで、ワンサイズ上がいいのではと伝えた。
即座に浦上氏は「少しきつめくらいが良いのです」とおっしゃった。
氏は、手早く正確に靴紐を結んでくれた。

かつてないほどビタッとしたフィッテングであったが、店内を歩いていてみると足に吸い付くかのような心地よさを覚えた。
今思えば、それは大きな一歩だったのだろう。
少し世界が変わった。

(つづく)

追記:先日、仲正昌樹氏をドラマトゥルクに迎えた、あごうさとし氏の新作演劇公演"-純粋言語を巡る物語-バベルの塔 Ⅱ"を拝見し、非常に触発されました。美的なものの経験と複製可能性との関係を思考する上で大きな示唆を得えることができました。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害