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第51回 「公共的理性」を欠いた"民主主義"  仲正昌樹

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法学では、その人の基本的な人権を制限するなど、重大な不利益処分を行う時には、必ず予め定められた手順に従って、その妥当性を吟味することを、適正手続き(due process)という。犯罪を行ったことが見え見えだったとしても、省いてはいけない。メディアやネットで、他人の行動を糾弾し、裁きを付けるような場合にも、デュー・プロセスは必要だ。メディアには、デュー・プロセスは不要だという考えもあるかもしれないが、政治と司法を動かして、現在の統一教会問題のように、教団を解散に追い込むキャンペーンをする場合、デュー・プロセスに準じた手順を踏む必要があるだろう。
デュー・プロセスという感覚がない人には、「公共的理性 public reason」の重要性も理解できないだろう。前者は、後者の基礎になっているからだ。「公共的理性」は、格差原理で有名な政治哲学者ジョン・ロールズ(一九二一―二〇〇二)の後期思想のキーワードだ。
後期のロールズは、様々な宗教的、民族的、世界観的背景を持った人々が、自由、平等、公正、自律、連帯、厚生...等の、憲法の基礎になるような基本的な正義の理念について、普遍的合意に達することは可能か、という問題と取り組んだ。そこで、様々な世界観を持った人たちの間で成立する「重なり合う合意 overlapping consensus」と、それに基づく公共の場での議論で用いられる「公共的理性」に着目した。
「重なり合う合意」というのは、その社会で長年にわたって共存し、立憲的体制を共有するようになった集団間で事実上成立している合意である。例えば、「意見表明の自由」や「人身の自由」であれば、特殊な教義を持ったキリスト教の宗派であれ、イスラム信者や仏教徒であれ、無神論者やマルクス主義者であれ、それが憲法の中核的理念であり、(自分たちも)尊重しなければならないことは認めるだろう。そうした合意が安定化し、その社会で生きるあらゆる集団の共通了解になっていれば、それは「重なり合う合意」である。
ただ、包括的教説(comprehensive doctrine)を有するそれぞれの集団は、どうして「意見表明の自由」や「人身の自由」が重要なのかについては、それぞれの教義に基づく異なった論拠を持っているだろう。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを典拠にするだろうし、マルクス主義者はマルクスやエンゲルスのテクストを参照するだろう。内部向けにはそれでいいが、外の人には伝わらないし、受け入れてもらえない。
そこで、外部との議論で必要になるのが、集団内部の言説を、その社会を構成する他のメンバーにも理解可能なものに変換する「公共的理性」、あるいは、「公共的理性」が論拠として用いる「公共的理由 public reason」が必要になる。「公共的理由」とは、同じ立憲体制の下で生きるメンバーであれば、当面の問題を解決するための基本的な原理として受け入れないとしても、無視することはできない「理由」、少なくとも、どうしてそれをここで適用するのが不適切であるか反論せざるを得ない「理由」である。
例えば、妊娠中絶が違憲かどうかという論争であれば、合憲であると主張する側が、妊娠した女性の〈right of privacy〉――日本語の「プライバシー権」よりも広い概念である――を論拠として持ち出せば、反対している側も無視できない。〈right of privacy〉とはどういうものか再定義したうえで、この権利を、中絶をめぐる道徳的・政治的・法的論争の文脈で適用することの是非をめぐる議論に応じざるを得ない。〈right of privacy〉が、アメリカの憲法それ自体によって直接保証されているかどうかについては議論の余地があるが、そんな権利など必要ない、と言う人はほとんどいないだろう。
各人がそれぞれ身に着けた「公共的理性」を駆使して、「公共的理由」に基づいて議論するのであれば、その人の思想的背景や出自は関係ないはずである。二〇一二年にアメリカの大統領選で、共和党の大統領候補だったロムニー氏はモルモン教徒であり、布教活動を行っていたことも知られているが、大統領選の最中そのことが特に話題として取り上げられることはなかった。彼の掲げる政策が、共和党の政策として普通に通用するものであり、別にモルモン教の教義を参照しないと理解できないようなものではなかったからである。
 統一教会と自民党の政策が"同じだ"と言っている人にはそれが理解できていない。旧統一教会が推進している政策でも、それが保守的な観点からの国益に適っているのであれば、旧統一教会と"同じ政策"を推進することに基本的に問題はないはずだ。"統一教会と同じことを言っている"などと反射的に非難する前に、その政策が、旧統一教会だけの利益になっているかどうか吟味すべきだ。政治家が特定の教団と、政策協定を結んでいたり、選挙支援を受けたりすると、後で何かの便宜を図ってやらなければならなくなるかもしれないが、それはその人の主張自体が、公共的理由に基づいているかとは別問題だ。
 特に、政教分離とか信教の自由、家庭や団体の自己決定と個人の自己決定の対立、各人の責任能力の判定基準などは、憲法の根幹に関わる、公共性の高い問題なので、発言している人の宗教・思想的な背景・利害関係ではなく、その発言内容が本当に公共の利益に適っているかにだけ即して評価すべきである。たとえ、ある教団が、自分たちの内情が詮索されないようにするために、建前的に「政教分離」を主張しているように見えたとしても、その主張の中身が、当該教団だけでなく、宗教やそれに準じるスピリチュアルな世界観にコミットしている人々の大半にとって決定的に重要な利益に関わることであれば、素直にその主張を受けとめ、「公共的理性」によってその是非を吟味すべきだ。
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ロールズは、包括的教説を持った集団間の「重なり合う合意」に絞って議論をしているが、「公共的理性」論はより広範囲に応用できる。人間はいろんな動機から発言する。目立ちたい、実績を作りたい、〇〇に恩を売りたい、▲▲に嫌われたくない...といった利己的な動機から、公共の場で発言することはしばしばある。というより、そういう利己的な動機なしの発言の方が珍しいだろう。しかし、利己的な動機が見え隠れしているからといって、その主張内容自体が「公共的理由」に適っているとしたら、発言している動機をいちいち詮索すべきではない。その人の発言する動機に、個人的に関心を持つ分にはいいが、隠れた動機を明らかにすることが、その発言内容の公共性を否定する"反論"になると思っているとしたら、とんでもない勘違いだ。
 ハンナ・アーレント(一九〇六―七五)は、人間が、言論を中心とする人間らしい「活動」に従事するには、自らの姿を公衆の目に晒し、彼らの理性に働きかける「公的領域」と、生理的欲求を含めた様々な個人的な欲望の充足を図る「私的領域」が区分されていることが肝要だと指摘した。「公的領域」で語られることと、「私的領域」での振る舞いにギャップがあるのは当然だ。前者に一貫性があり、実際に公共の利益に適っているのであれば、少なくとも、「公共的理由」に基づく主張だと認めるべきだ。
「公共的理由」に基づいた主張だと認めることは、相手の言っていることを丸呑みにすることではない。憲法裁判で、「表現の自由」と「プライバシー権」が衝突することがあるように、その事例で、いずれの「公共的理由」を優先すべきかという議論の余地は常にある。
「公共的理性」を身に着けていれば、他者の掲げる「公共的理由」の意味を認めることはできるはずである。無信仰の人でも、信仰を持っている人にとっての信教の自由の意味は理解できないはずはないし、特に政治的意見を持っていない人でも、政治活動への参加の自由・平等の意味は理解できるはずだ。一生独身で過ごすと決めている男性でも、公共的理性を備えていれば、中絶をめぐる〈right of privacy〉の存在意義は理解できる。
しかし、今の日本のネット論客たちは、自分から見て気に入らない"考え方"の連中は、みんな"同じ宗教"であるかのように大雑把にひとくくりにして、攻撃しようとする。「夫婦別姓を唱えているから統一教会だ」、「子供の権利と家族的価値観のバランスを取ろうなどと言っているから統一教会だ」、「宗教団体にも政治活動する自由があると言っているから統一教会だ」、という調子で。同じ様な調子で、「〇〇は、▼▼と同じ様に◇◇と言っているので、左翼テロリストだ」というような悪口を並べることもできる。
今の日本には、こういう発言の愚かさが分からない人が多すぎる。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害