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第16回 ベンヤミン最期の30分『-複製技術の演劇-パサージュⅢ』を観劇 清家竜介


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この『パサージュⅢ』は、気鋭の劇作家・演出家あごうさとし氏による連作『パサージュⅠ』『パサージュⅡ』に続く最後の作品にあたる。ドラマトゥルクにドイツ思想史家でもある仲正昌樹氏を迎えた本作は、11月に東京と12月に大阪で公演が行われた。私は、11月22日の東京公演を観劇した。
 この作品は、第二次大戦中に亡命の逃避行の最中にスペインの港町ポルトボウで服毒自殺したドイツの批評家・翻訳家・社会学者ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の自死へと至る最後の30分を舞台にしたものだ。
 あごう氏は、ベンヤミンの複製技術論にインスピレーションを受けて、通常は複製とほど遠いと考えられてきた演劇の複製化を狙った。演劇を構成する二つの重要な要素である演者と観客の内、あごう氏は、演者でもある自ら身体を複製と化すことによって舞台上から消去することによって、演劇の複製可能性を探究した。
 舞台上では、パソコン、ポルトボウの風景が映し出されたモニター、散乱する活字の印刷物、服毒自殺する際にベンヤミンが用いたと思われるモルヒネを入れた小瓶など、舞台上に様々な装置が配置されていた。
 観客は、会場アナウンスによって開演前の舞台へ登壇することを促された。開演すると録音(複製)されたベンヤミンの声(演者あごう氏の声と思われる)が舞台上の彼方此方から独白をはじめる。暗がりの中に響く録音された音声やスポットライトに誘われ、観客たちが舞台上をウロウロ歩き廻るという趣向であった。舞台に上った観客には、特に禁じられている行為もない。
 舞台装置と複製された声を用いることによって、俳優たちの生身の身体を消去するとともに、録音(複製)された声と舞台装置である幾つかのモノたちを通じて、物語を進行させていく。
 一回的な舞台における俳優たちの身体と不可分な"アウラ(オーラ)"が消失した舞台は、まさにベンヤミン的なものであった。演者と観客という二項対立が消去された舞台上で、観客たちは相互に他の観客の眼差しにさらされる。いわば観客であるはずの人々が、舞台上で"演者=観客"と化す、ポスト演劇的な不思議な中間領域に誘われることになる。
 幾つもの印象的なシーンや仕掛けが展開された。例えば、ベンヤミンが所有していた帽子と靴が、操り人形のように天井から吊り下げられて話だすシーンは、美的な商品が饒舌に語り出だす消費社会の本質を的確に表現するものであった。また死したベンヤミンに手向けられた、複数のipadの画面の中に映し出された暗闇に光る花々は、生ける花束よりも、タナトスの濃密な香りを漂わせる鮮烈な美を表現していた。それらに加えて、カフカの小説を思わせる、よちよち歩きのこびとか犬か判別のつかない奇妙な人形も登場し、舞台を滑稽かつ奇怪なものへと変えていた。


 この不可解かつ奇妙な舞台は、あごう氏が所属していた劇団を解散した後、一人で演劇と真摯に向き合ってくることの中から生まれてきたものだ。あごう氏は、集団的な宗教儀礼などとは異なり、芸術が新たな創造を可能にする"個人"の次元に根ざしていると考えている。そうした考えから、あごう氏は、集団作業である劇団による演劇から離れる決意をしたそうだ。


 装置と録音・録画技術によって一つのシステムとして構築された舞台に登壇することになった"演者=観客"は、ベンヤミンが描いてみせた「遊歩者(フラヌール)」のように、ベンヤミンの死へと至る最後の30分を、それぞれの身体と眼差しを通して追体験することになった。
本作は、批評家であるベンヤミンの舞台上の身体を欠いた複製された死を、垂直的に上昇していく魂としてではなく、無数のテクノロジーに媒介されることで彼方此方へと拡散していく粒子のイメージで捉えていたように思える。この複製された生と死のイメージは、さまざまなメディアや複製技術に浸された現代社会における私達の生と死を象徴的に表現したものだ。
 
 あごう氏と関わりの深い劇作家・演出家の平田オリザ氏は、『演劇入門』(講談社現代新書)の中で、市民社会が参加と対話を前提とした演劇を必要とすると述べている。神話的世界から切り離された市民社会を構成する人々は、互いの生活のコンテクストを摺り合わせるために、不可避的に対話を必要とするからだ。市民社会における対話的演劇は、決まり切った神話や各人の自閉した物語を越えて、人々が折りあっていくための社会的なレッスンなのである。
 それに加え平田氏は、現代の演劇が複雑極まりないリアルそのものへと反復的に接近することで、リアルの解像度を上げていく使命を持っているという。


 あごう氏による『パサージュⅢ』は、平田氏がいうところの市民社会が要請する、参加型の対話的演劇にほかならない。あごう氏は、俳優と観客という二項対立的関係を解体するために、複製技術によって舞台をシステム化することで、俳優達のアウラを極力消去した舞台を構築した。このアウラを排除した舞台によって、舞台上の"演者=観客"となった私は、迷宮と化した現代のリアルへと新たなアングルから侵入したように思えた。


 ベンヤミンの美学は、複製技術などの様々なメディアに媒介された集団的な知覚の在り方を問題とするメディア美学である。私達の生は、舞台上に複製されたベンヤミンの死と同じように無数の装置やメディアに媒介されている。
 第一次世界大戦へのアメリカの参戦を促すために、ウッドロウ・ウィルソン大統領は、民意を煽り操作する宣伝技術を開発し現実のものとするために、クリール委員会を設置した。クリール委員会にはW・リップマンやE・バーネイズ等が参加し、彼等は様々な宣伝手法を用いて、参戦へと向かう世論を誘導していった。
 ナチスは、アメリカの民意を参戦へと舵を切らせたE・バーネイズたちの宣伝技術の手法を積極的に学んだ。ベンヤミンの時代のメディア環境は、宣伝技術に習熟したナチスの周到なメディア戦略によって、ベンヤミンだけでなく数知れぬ人々を無残な死に追いやった。


 複製の次元へと引き戻されたベンヤミンの生と死は、人々の知覚を編成し造形した、生身の身体を超えて拡張された「メディア的身体」の在処を確かに指し示していた。TV・携帯電話・インターネットなどの電子メディアによって拡張された現代の私たちの「メディア的身体」は、どのように造形され、どこに向かおうとしているのであろうか?
 舞台上に複製されたベンヤミンの最後30分の生と死の瞬間の記憶は、舞台上の"演者=観客"たちに、メディアによって拡張された現代人の生と死について省察することを確実に促していた。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害