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第24回 文字と歴史意識:メディア論のための素描4 清家竜介

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  近代化やグローバリゼーションとよばれる社会変動を生み出すことになる西欧文明の源流には、ヘブライズムとヘレニズムという二つの基層となる文化が存在している。その双方の文化は、文字というメディアによって書き付けられた原初的テクストを有している。ヘブライズムの源流には、"The book"と呼ばれる『聖書』が存在している。前5世紀から前4世紀頃に編纂されたユダヤ教の聖典である『聖書』は、もともと古代ヘブライ文字によって書き留められたものである。
 ヘレニズムの源流には古典ギリシア文化を彩る数々の本が存在している。それら古典の中でも原初的テキストというべき書物は、神々や英雄たちが活躍した民族の神話時代を描きだした『イリアス』『オデュッセイア』に代表されるホメロス(前8世紀頃活躍したとされる)の叙事詩にほかならない。
 古典と呼ばれる偉大な作品を多数残すことになった古代ギリシア社会は、フェニキア文字から分かれたアルファベットという文字が前10世紀から9世紀にかけて発明され、浸透していった最初期の社会であった。さらに改良されたアルファベットは、現代の私達の生活に不可欠なものとなっている。
 実のところ私達が古代ギリシアの偉大さを知ることができるのは、古代ギリシアのアルファベットを用いた、プラトンやアリストテレスたちが記したとされるテキストによってである。
 私達は、フェニキア文字を改良した線文字A、線文字B、キプロス音節文字を先駆とするアルファベットが発明される以前のギリシアについての過去の記録をほとんどもっていない。文字数が少なく簡便なアルファベットは、人々のリテラシーを高め、書簡や書物に用いられるようになった。アルファベットという書記のシステムを生み出す以前の古代ギリシア世界を知るためには、基本的に考古学的な調査と資料が頼りとなる。とはいえ考古学的調査による古代ギリシアの検証は急速に進んできており、多くの事柄が解明されはじめている。
 さらに改良されたアルファベットは、ヨーロッパだけでなくグローバル化した世界の共有物となり現在に至っている。他方で、私達が住まう東アジア世界は、中国でうまれた漢字という書記のシステムとそれを土台にして育まれた漢字文化の伝統の恩恵を受けている。
 東アジア世界における原初的テキストを上げるなら、漢字という文字に書き留められた四書五経である。その中でも孔子と弟子たちの事績を書き留めた『論語』(前5世紀の末頃に成立)は、12世紀における宋学(朱子学)の興隆と相まって、現在の漢文化の基礎なす原初的テクストとなった。
 とはいえ漢字という書記のシステムは、アルファベットがフェニキア文字から分かれてきたように、亀甲文字や金文という先行者を持っている。東アジア世界は、中華文明が生み出したテキスト群と漢字という書記のシステムを共有することで、いわば中華文明圏を形成することとなった。中華の周辺国であった日本もまた朝鮮やベトナムと同じように、自らの原初的テキストを漢字という書記のシステムを用いて書き付けることになった。
 例えば、日本という国にとっての原初的テクストとされる『日本書紀』『古事記』は7世紀後半に編纂された。それらは平仮名や片仮名ではなく、変体漢文と呼ばれる漢字を用いている。最古の和歌集である『万葉集』は、8世紀後半に完成したが、これもまた平仮名や片仮名ではなく漢字を用いた万葉仮名によって書かれている。
 実のところ平仮名や片仮名は、中国から漢字が流入した後に成立したものだ。漢字という書記のシステムは、中国の律令という古代の官僚制や文物を受け入れるために必要不可欠なメディアであった。漢字の導入は、同時に漢字に込められた中国由来の観念、漢字のテクストに込められた中国の思想をこの列島に決して消えることのない痕跡をともなう遺産として伝承することを必然的なものとした。
 西洋化が進む以前の日本社会において、平仮名や片仮名はまさに「仮(かり)」の名で、「真(まこと)」の文字である「真名(まな)」は漢字であると考えられていた。
 例えば、紀貫之が女性に扮して私事を書き留めた『土佐日記』(935年頃)は、国家的な記録として伝達され保存される真名である男性的・官僚的な漢字でなく、和歌に用いられるようになった仮名を用いている。仮名を用いることよって、男性的・官僚的な漢字では表現しきれない、より細やかな心情を表現することが出来ると考たのであろう。
 これらのことからも分かるように国民としての日本人というアイデンティティの起源は、じつのところ真名と考えられていた漢字という書記のシステムと不可分である。この真名と仮名の二項対立の転倒を試みたのが、『古事記伝』を著し国学を大成した本居宣長である。


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漢字文化の中心をなす中華から離れた辺境の列島に住まう日本人の過去は、当然『聖書』『論語』『イリアス』などを原初的テクストとする長きに渡る文明的な伝統の厚みを持たない。
 最古のテクストと呼ばれる『古事記』は、天地開闢からはじまる神話時代の物語が記述されているが、それが実際にテキストとして記録されたのは、飛鳥時代だとされている。
 それ以前の日本を文字というメディアを介して知ろうとするならば、魏呉蜀が鼎立した三国時代に、魏に使節を送ったとされる邪馬台国の女王卑弥呼の記述が掲載されている『魏志倭人伝』(3世紀末)などの中国の史書の助けを借りねばならない。
 文字というメディアは、このように私達の過去の記憶やアイデンティティと不可分である。口から発し、直ちにかき消える"声"というメディアと異なり、文字というメディアは、時空を超えて保存され持続するコミュニケーション・メディアであるからだ。
 声を基本的なコミュニケーション・メディアにする無文字社会と文字を基本的なコミュニケーション・メディアとする文明化された社会の在り方は、メディア論的観点からするならば大きく異なる。
 ジャック・ル・ゴフによれば、無文字社会における過去の記憶は、基本的に三つの段階に分かれる。まず、年齢階梯制によって分割されたグループに関する体験された過去である。次に部族にとって重要な一連の出来事の系列を記憶した「歴史的な時」であるが、50年を超えることはあまりない。 次に「純粋な神話の地平」という伝統の次元である。そこでは経験された過去が神話的複合体に溶け込むことになる。
 文字以前の社会では、声を基本的なコミュニケーション・メディアとしているので、とうぜん文字を使用した"記録"が存在しない。それ故、文字によって蓄積された過去の厚みが存在せず、過去の地平は、わずかな世代の記憶を超えることなく、速やかに神話の物語の中に溶け込んでしまう。声を基本的なコミュニケーション・メディアにした場合、世代を超えた過去の記憶を正確に保持することは極めて困難なのである。
 わたしたちが過去の"記憶"を千年以上の時を超えた"記録"として保存しているのは、現在まで連綿と用いてられてきた書記のシステムを生み出した、幾つかの文明のお陰なのである。

参考文献
ジャック・ル・ゴフ『歴史と記憶』立川 孝一訳、法政大学出版局、2011年。

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害