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第39回 「沈黙」と根本敬/屈し続ける「不屈の民」 菩提寺光世

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仕事中スマートフォンが点灯した。吹き出しメッセージは手塚理美さんからのものだった。
サイレンス見た?
今電話しても大丈夫?
どうしても伝えたい、その温度が伝わるようなメッセージに、すぐには応じられない仕事中の状況にもどかしさを感じながらも、さすがに女優、と彼女の職業に納得する思いも同時にあり、いい加減に回答するのは避けようと思った。

互いに20代、彼女は既に女優としてのキャリアを積んでいたけれど、仕事も結婚もまだまだこれからという頃に彼女と知り合った。当時会う機会はちょくちょくあったけれど、その後は互いの近況を知るものの長い間会うきっかけはなかった。それでも彼女は私を見ている。何に関心があり、どういうことに無関心であるのか、日頃顔を合わせている人以上に分かっているところがある。或る域に達している俳優とはそういうものなのかも知れない。観察に精通すべき俳優業は、表情や身体の動き、癖を読み取り模倣し、憑依させたのかと見紛うほどに自分の身体に他人を出現させる。
スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス」は、塚本信也監督が俳優として演じるキリシタン漁師モキチの水磔場面が気になりながらも見逃してしまった作品だった。「沈黙」は隠れキリシタン弾圧による過酷な拷問にも責め苦にも屈することがなかった渡来宣教師が遂には踏絵をふむに至る経緯を追った作品である。映画化されるのは二度目。一度目は篠田正浩監督によって映画化された。原作は、宗教の在り方と教義の正義を根底から覆しかねない遠藤周作の問題作である。キリスト教徒であった遠藤周作であったからこそ、真っ向からキリスト教教義に迫るこの作品は、出版当初からカトリック教会の強い批判があったと知られている。
批判という点では同じくスコセッシ監督88年の作品「最後の誘惑」は、キリストの性描写が物議を醸し、抗議や上映反対運動が起こった。
スコセッシ監督作「沈黙-サイレンス」は宗教において正義と欺瞞が表裏一体を成すという点において、篠田監督作品より明確に表現しているように思う。しかもこれは架空の物語ではない。にも関わらずこの作品がカトリック教会からも一定の評価を受ける結果になったのは、確かに制作者側の配慮と尽力もあるだろう。然しそれ以上に、批判をかわし得たのは一方向ではない多義的な解釈をせざるを得ない巧みな映画編集にあったのではないだろうか。両義的意味合いを象徴するような、隠れキリシタン(か潜伏キリシタン)であるモキチ自作の十字架が鍵を握っているのではなかろうか。棄教した元宣教師ロドリゴが帰化し、今度はキリシタンを取り締まる任務を担って生涯を終える。棺桶に収められたロドリゴの手のなかにモキチが作った十字架が隠される。
映画のなかで残酷極まる拷問の末、信仰を捨てずキリシタンでありつづける民がひとりまたひとりと虫けら同然に命を落として行く現実に、宣教師は神に問い続ける。罪もない彼らを見殺しにすることがあなたの御心なのか。見捨ててまでも貫き通すことが正義であり忠実な信仰の姿なのか。純粋でまっすぐな信仰には寛容すら入り込む隙はないのか。初めから最後まで観るものに問い続け、回答を出さないままに映画は幕を閉じる。
宣教師が渡来する場面は、溝口健二監督「雨月物語」のようにもしくはヴィスコンティの「ヴェニスに死す」のように視界がひらけず先が見えない霧中、夢とも現実ともつかない未知の世界へと舟が水面を前へまた前へと漕ぎ出される情景である。そしてその先にあったのはやはり先述の両作品同様に、揺るがぬ大地などそもそもない混沌とした、現実感が遠のく世界だった。
作品のなかで宣教師を棄教へと追い込む長崎奉行-井上筑後守が日本にキリスト教が根付かない根拠を説明する場面がある。キリスト教布教を、樹木が根付き大地に広がる様子に例えるなら、日本でそれが広がることはない。なぜなら、どこまで行っても沼地が広がるばかりのあやふやなこの地では根は張らず、芽が生えたと見えてもスルリと抜ける。そんな沼地が日本という国なのだ、と。

隠れキリシタンたちは泥の中で潜み、仏教の衣をまとい姿を変容させ息をしている。観音の中に潜む聖母マリア、呪(じゅ)の中にオラショの祈りが籠められる。潜伏する貧民の結束は、日向に公然と営まれる社会的な人々との繋がり以上の強固な絆で結ばれている。働けど働けど楽にならない生活の労苦は、死の向こうの天国への憧れへと誘う。キリスト教徒でさえいれば天国へ行ける、と信仰を握りしめ、どのような攻めにも拷問にも屈せずキリスト教徒の名のもとに命を投げ出して行く。

そのなかでキチジローと呼ばれる男は全く異質である。隠れる宣教師の案内役を務めるキチジローは物語のトリックスター的な案内人にもなっている。キチジローは繰り返し何度でも棄教する。保身のためなら仲間も家族も神さえも裏切り、売ってしまう。逡巡なく何度でも踏み絵をふみ、時にはマリアに唾を吐きかける。責められればすぐさま屈し、何でも差し出し放棄する。そしてその都度、宣教師に告解を求め赦しを乞う。裏切った相手であるにも関わらず、まとわりついて離れない。
カトリック教義において告解は、最も重要な秘蹟の一つである。迷える一匹の小羊キチジローの告解の求めを宣教師がどうして拒めよう。こうして屈し続けるキチジローを前に誰も彼を制することができない図式が成立する。そして裏切り者キチジローこそが生命を全うする最後の時までキリスト教徒であり続けるのである。

屈し続け、誰にも逆らわず、力にも正義にも不義にもなびく狡猾なキチジローの姿に重なるキャラクターがいる。

それが根本敬氏が描く村田藤吉である。彼は、根本作品において度々登場する中年男である。小市民的な家庭を持つサラリーマンである彼は、会社においても家庭においても威厳らしきかけらも発揮できないダメで冴えない中年男である。強いものに従い、弱いものにも従い、人から利用され、面倒なことは押し付けられ、苛ついた者からは感情の捌け口として八つ当たりされ、殴られ蹴られても文句ひとつ言わない。それは決して信念からでも、何かの考えからでもなく、単に臆病で何に対しても逆らうことのない性質からである。たとえ濡れ衣を着せられ逮捕されても言われた通りに刑務を負う。冤罪にも関わらず息子は犯罪者の子供という理由からいじめっ子たちに撲殺されてしまう。自己主張しないといっても彼は決して風の又三郎のような類とは相容れないキャラクターなのである。息子を殺害した加害者たちが成人し、村田藤吉の元に謝罪訪問する場面がある。加害者たちは衆議院議員や弁護士協会理事長、国立病院院長といった社会的な地位、権威を得た大人になっている。それを知った村田藤吉とその妻は、謝罪を受ける当事者であるのにおどおどヘラヘラと媚びへつらうように腰を低くする。その場の空気に迎合し、権威にかしずき服従する。世間の人と同質の権威主義的パーソナリティの持ち主であるのにも関わらず、皆からのいじめの対象となっている。
笑いの視点から展開されるストーリーに、影や暗さは表には出てこない。
鈍臭くて、狡猾さとは無縁な村田藤吉だが、一貫し屈し続けるという受け身の点では、キチジローと同様にその態度を揺るがすことはない。そこには命さえ投げ出し貫く信仰を持つ者たちと同等の、揺るがないという点においては彼ら以上の一貫性をキチジローと村田藤吉は有している。しかもそこには信念や心情といった態度を裏づけるに価する根拠もなく、ただ単に屈する者たちなのである。

遠藤周作がキチジローを「弱き者」の象徴として描いたかは定かではないが、果たしてキチジローや村田藤吉は弱者なのか。

根本さんに依頼したジャケット画はコジマ録音のレコード「不屈の民 変奏曲」だった。民衆の抵抗運動の歌として知られる曲の変奏曲をフレデリック ジェフスキーが作曲し高橋悠治が演奏している。ジャケット画の依頼理由とレジスタンスは全く関係はないけれど、無抵抗でひたすら屈し続ける村田藤吉をイメージして制作をお願いした。
もともと抽象的なデザイン画のジャケットをどう解釈し描き変えるのか、それが楽しみだった。

 高橋悠治の「不屈の民 変奏曲」に、現在の彼の演奏に感じる独特な揺らぎは未だ現れてはいない。演奏は、例えばホメーロスが古代ギリシャの広場において朗々と歌い上げる詩のように聴衆を駆り立て、熱き連帯感を奮い立たせている、と想像する情景とは遠く離れている。熱情とは距離をとった演奏は、演奏する自分からも距離を置き、聴者と共に聴いているかのように思える。
主題を組みなおし編集された「不屈の民変奏曲」は、連続的に進行する実際の音の連なりだけでなく、聴くもの(受け手)の耳に残る記憶の音によって成立しているように思う。旋律を聴いた同じ耳に、繰り返される次の旋律の痕跡が重なってゆく。音の記憶は重奏となり、何度も何度も立ち現れては違う音、違うリズムと速さを耳に受けながら、同じ旋律を記憶がなぞる。循環し螺旋を描き上昇するような音は、消えても消えても現れる実際には弾かれていない音のメロディーの記憶を聴く者が結合させている。

そのようにこの演奏を捉えるなら、やはり村田藤吉のイメージでこの演奏のジャケット画を依頼したことは、あながち的外れな依頼ではなかっただろう。
消えることで立ち現れる音があるように、キチジローや村田藤吉は屈し続ける「不屈の民」ではなかろうか。

先日私が所属する事務所で根本さんを招きトークイベントを開催した。
村田藤吉について質問したが、そもそも作品やそのキャラクターを固定概念の枠のなかに収めてしまうことに抵抗があるだろう作者への質問としては適切でなかったかも知れない。作者は良いとも悪いとも、またそのキャラクターに共感するともしないとも回答を避け「近くにいたら利用するかも知れない」と応えた。
作品から距離を置き、観察者であり続ける作家は、特別な才気を有する演奏家に通じると感じながら私はぼんやり思う。

 利用されるのは村田藤吉か根本敬かどちらだろう、と。

 

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