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第36回 Actor, Daniel・Day-Lewisに - PHANTOM THREADに寄せて 菩提寺光世

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「「ドラマ」という言葉は、ギリシア語の動詞dran「活動する」からきているが、これこそ劇の演技(アクティング)が実際は活動(アクティング)の模倣であることを示している。」(「人間の条件」 ハンナ・アーレント) 


「action!」という現場のかけ声からActorの演技がはじまり、映画の時間が動き始める。
三つの話を紡いでみようと思う。
まずは、ナチスドイツからアメリカに亡命したユダヤ人思想家ハンナ・アーレントの「人間の条件」に定義される「活動/action」について。ざっくりとごく簡単に。アーレントは人間を「活動/action」、「仕事/work」、「労働/labor 」の三つの側面から考察する。なかでもactionは人間を成立させる最も重要なものとして挙げている。action とは、仕事のように何かの目的として行われるものでなく、あるひとりが話したり、おこなったりすることを指す言葉である。このaction〈活動や言論〉は外に向けて現われるので、自分以外の何かがあること、つまり多数性pluralityが条件になる。しかしaction そのものは、多数のなかのある、それぞれ違うひとりひとりから発するものであるので、そこには唯一性/uniquenessが同時に不可欠であるというのである。
「この差異を表明し、他と自分を区別することができるのは人間だけである。そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このようにして人間は、他者性をもっているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっていると言う点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては唯一性となる。したがって人間の多数性とは、唯一存在と逆説的な多数性である。」(「人間の条件」 ハンナ・アーレント)
他と自分を区別できるのが人間だけかどうかはここでは問題とすることはせず、「活動action」についてのみ言えば、アーレントは、actionは大勢のなかのあるひとりから自発的におこるものだと言う。しかし活動はたったひとりの世界の中で行われるわけではなく、大勢がいる外に現われるということが、重要なポイントとなっている。アクションとそれに対するリアクションによって織られる網の目(web)は、アクションに対するリアクション、そのリアクションがまた新たな始まりであるアクションとなり、次なるリアクションへ、という風に主体と介在者を越え際限なく広がって行く。
「活動者は常に他の活動者の間を動き、他の活動者と関係をもつ。だから活動者というのは、「行為者」であるだけでなく、同時に常に受難者でもある。行うことと被害を蒙るということは、同じ硬貨の表と裏のようなものだからである。そして、活動によって始まる物語は、活動の結果である行為と受難によって成り立っている。しかし活動の結果には限界がない。なるほど活動(アクション)は、それ自体新しい「始まり」である。しかし、活動は人間関係の網の目という環境の中で行われる。この環境の中では、一つ一つの反動(リアクション)が一連の反動となり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となる。このために、活動の結果には限界がないのである。」(「人間の条件」 ハンナ・アーレント)

ここで、このアクションをキーワードにActorダニエル・デイ=ルイスの引退作品となった「ファントム・スレッド」(幻の糸)を見て行きたいと思う。
舞台は1950年代のイギリス、ロンドンの仕立て屋である。軍需産業から人びとの暮らしを支える産業へと移行した第二次大戦後の50年代は、ファッションの受容がより多くの人へと広がり、ごく限られた裕福層のための伝統的な仕立て服から量産可能な既製服へと移って行く時代でもあっただろう。当時のオートクチュールの中心はパリであった。その頃のパリの有名メゾンは既に何百人もの従業員が属する大企業と化していたが、ロンドンのハウスの多くは家内経営的な規模のものであったという。1947年にディオールが発表した「ニュールック」はセンセーショナルで、その後の50年代のファッションに世界的に強い影響を与えたという。映画の中でもなだらかな肩からウエストを絞った8ラインと呼ばれるシルエットのドレス、「ニュールック」の前身であったとされるバレンシアガの四角い襟ぐりを連想させるドレスは、女性のラインを強調させるあまり今日から見ると窮屈そうにも見えるけれど、戦時中の女性らしさを排除し抑制した服装からのある意味解放であったと思う。一方で映画の主人公が纏うジャケットは、「ニュールック」の紳士服の特徴である幅の狭いラペル以前の幅広のラペルである。少なくとも主人公自身は「ニュールック」の影響以前の伝統に立っているようである。この映画の服や靴の数々が、店や登場人物の立ち位置を表わしている。ダニエル・デイ=ルイスが演じるのは仕立て屋「ハウス オブ ウッドコック」の主人、レイノルズ・ウッドコック。この映画の主人公である。アーレントによると、主人公「ヒーロー」という言葉はホメロスに起源し、トロイ戦争に参加した勇気ある一人ひとりの戦士に与えられた名称であったという。この主人公の新しい動きをもたらすというニュアンスのact、actionによって、物語は急展開し、誰もが思わぬ方向へと進んで行く。
物語は日常のある一日、上客ヘンリエッタを迎え注文のドレスを納品する朝から始まる。客を迎えるための身支度に余念がないレイノルズ。身を清め、髭を剃り、ひとつひとつ身につける。靴を磨きながら、黒カーフのストレートチップかプレーントゥかどちらが相応しいかとしばし考えている。脚を組んでも脛の地肌を見せることは決してないピンクのシルクホーズに足を滑らせる。ウィンザー公が皇太子であった頃提唱したと言われるフォーマルカラー、人工光の元では黒以上に黒く見える濃紺のスーツに蝶ネクタイ。相当な時間を費やし身なりを整え、朝食の席に着く。口にする飲み物や食物も、自分の決めたルールに従って、決められた順序通りの時間を過ごし、万全を期して客を迎える。
そんなレイノルズがある日、立ち寄った郊外のレストランでウエイトレスのアルマと出会う。アルマは、彼が交流する階級の人びとにはない素朴さと田舎臭さを持つが、それを物怖じせず引け目にも感じない図太さとも取れる芯の強さがある若い女性である。そんな彼女に関心を持ったレイノルズ。彼に彼女もぐっと引き寄せられる。
アーレント風にいえば、actionすることは強制的にはじめることではなく、「他人の存在によって刺激され」始めること。レイノルズがアルマと出会ってすぐ「なぜ結婚をしないのか」と訊ねられ「結婚で夫のフリをするのが嫌だから」。そのフリという言葉がactだった。自分のルール通りに生活をし、自分の世界を乱されることを嫌い拒み続けた男が、アルマの出現によって刺激され、今までとは違い自分の在り方へとactionを起こす。今までのルールが揺らぎ始める。
粗野な振る舞いのアルマに、レイノルズは苛立を隠せない。特に食事の席では、同席者への気遣いはおろか騒がしく音をたてる、タイミングかまわず声をかける。食事の時間を栄養摂取以外の目的、集中や考察の為の必要不可欠な時間としても大切にしている者にとっては、マナーとしての所作以前の問題が彼女にはある。
ある日、ベルギーの王女が婚礼用のドレスの発注のためレイノルズの元を訪れる。ウェディングドレスの作製に全身全霊で臨もうとするあまり、それ以外の全てに対し拒絶するかの様な態度を示すレイノルズに、アルマが毒キノコ入りの紅茶を飲ませる。そして倒れた彼を、このうえなく満ち足りた表情で優しく介抱する。負傷した戦士と、彼を癒す慈愛に満ちた女性。彼女の腕の中にレイノルズは委ねられている。
ディレクターを失くしたウェディングドレスの仕上げが急がれるなか、作業に紛れ込んだアルマは「呪われることなく」としるされたお守りの刺繍をドレスから抜き取ってしまう。
回復し目覚めた彼はアルマに結婚を申し込む。ますます彼の生活に入り込んできたアルマの存在に彼の生活は一層乱される。彼女が連れ立って行きたいと願ったニューイヤーパーティーは、彼にとっては彼の静寂を乱すけたたましい喧噪にしか過ぎない。彼と彼女は住む世界が違う。
アルマがアトリエの生活に入り込み、上客であったヘンリエッタが去ってしまった事実に戸惑いが隠せないレイノルズ。
そして到頭、この結婚が大きな過ちであった、と姉に告げる。彼の背後から不意にその言葉を耳にし、立ち去るアルマに気付いたレイノルズは、さらに疎ましさが増して行く。
レイノルズとアルマのアクションとリアクションは抜け出すことはできない網の目となって、さらなる緊迫の一途へと向かっていく。
アルマが毒キノコを刻んでいる。レイノルズはバターが苦手だ。漂う焦がしバターの香りとオムレツが焼き上がる音を聞きながら、ふとレイノルズは全てをさとる。さとられたことにアルマも気付いている。瑞々しくふっくらとしたオムレツが焼き上がる。食卓にオムレツが差し出される。
意を決したナイフを入れ口に運ぶ。シリアスな駆け引きで緊迫感が頂点に達した先にあるのは、コミカルな笑いだ。どうだ、と言わんばかりににこりと微笑みアルマを見上げるレイノルズに、彼女が微笑みを返す。
「あなたには無力で倒れていてほしい。大丈夫。致死量には達していない」
渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖、レイノルズとアルマに交わされるアクションとリアクションの糸(スレッド)が編み目のように彼と周囲を新たな世界を織って行く。

この作品がDaniel・Day-Lewisの引退作となることに、誰よりも彼は納得していることだろう。私が彼から引退の気持ちを聞いたのは、20年前に遡る。世界的に知られるハンドメイドシューメーカー、故Stefano・Bemer の当時はまだ小さな工房の作業中でのことだった。1998年、ステファノがフィレンツェのこの場所、Borgo S.Fredianoで本格的な店(鰻の寝床のような店から移動し)を開いて2年目の出来事だった。
つづく

関連ブログ 
第37回 Actor, Daniel・Day-Lewisに - PHANTOM THREADに寄せて つづき 菩提寺光世
Daniel・Day-Lewis/ダニエル
Stefano・Bemerと共に

参照文献
「人間の条件」ハンナ・アーレント ちくま学芸文庫
「ハンナ・アーレント『人間の条件』入門講義」仲正昌樹 作品社

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