loading

第17回 スペシャリストからBiS現象へ 清家竜介

2707063_cue_websize.jpg

昨年末からトロッタ監督の『ハンナ・アーレント』が話題となっている。私が通っている書店では、いまだハンナ・アーレントを特集したコーナーがある。どうやらこのアーレントブームは一過性の現象ではないようだ。諸事に追われていたのもあって私は、この映画をうっかり見逃してしまった。また3月下旬に東京で上映があるようなのでその際にでも見ようかと思っている。
 アーレントが傍聴したアイヒマン裁判のドキュメンタリーフィルム『スペシャリスト』のDVD(現在廃盤)を先日、菩提寺医師に見せてもらった。今回は『ハンナ・アーレント』の代わりというわけではないが、その内容を思いだしながら、つれづれに書いていきたいと思う。ちなみに映画のタイトルにもなっている「スペシャリスト」という言葉は、アイヒマンの渾名(あだな)である。
 
 この映画を見てまず感じたのは、この映画の主題が全く古びていないということだ。ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン----悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)で指摘しているように、アードルフ・アイヒマンはどこにでもいそうな風貌をした凡庸な人物のように映る。
 アイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」として、大勢のユダヤ人たちを第三帝国から追放し、さらには強制収容所・絶滅収容所への移送を計画・遂行した人物で、これらの計画を立案し遂行することにおいて有能な「スペシャリスト(専門家)」であった。そしてアイヒマンは戦時体制にあったナチス・ドイツを支える官僚機構を構成する一員であった。
 社会学者のマックス・ヴェーバーが指摘するように、近代の官僚制は、行政組織や巨大な経済組織が合理的かつ効率的に運営するために不可避の手段としてある。ピラミッド型に権限が組み上げられ、その権限のヒエラルヒーに基づいて上意下達式の垂直的な意志決定が遂行される形態をとることになる。
 官僚的組織の典型として軍隊がある。軍隊はピラミッド型の明確な権限によって組み上げられ、戦争の手段となる。第一次大戦以前の戦争は主に戦闘員である軍人のものであった。しかし第一次世界大戦の総力戦では、非戦闘員である婦女子を含む社会の構成員の全体が動員され、上位下達の軍事的な官僚機構が社会の隅々にまで満遍なく浸透することになる。アイヒマンは、この総力戦の時代の官僚機構に属する組織人であった。
 アーレントの著作や『スペシャリスト』に登場するアイヒマンは極悪非道の悪漢というよりは、自らの職責を全うしようとした、生真面目かつ凡庸な人物にすぎない。アイヒマンは職責を全うするために、自らの「良心」を括弧に入れて上意下達式に上官の命令に服し、無数の人々を死の工場である絶滅収容所へと送ったのである。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦は、官僚制という合理的手段を用いることで総力戦を可能とする総動員体制を築きあげ、社会全体にこの軍隊式のシステムを浸透させていった。例えばその時代に相応しい倫理学を提唱する者が日本にも現れた。戦時下における全体主義的秩序を可能にする未曾有の倫理学を和辻哲郎は提唱した。「空の弁証法」を唱える和辻は、日本人が従うべき倫理として「居住の自由、通信の自由、信教の自由、言論の自由」などの近代的自由をかなぐり捨てるだけでなく、人々に「私」を捨て去り、究極的な人間の全体性である国家に没入せよと説いた。国家という全体における「和」を重んじ個としての「私」を捨て去ることを呼びかけるこの特異な倫理学の中で、ささやかな自由や自己さえも神聖なる全体に埋没させることを人々は要求された。
 アイヒマンの職業倫理もまたナチス政権下のドイツの「公」に服するものであった。とはいえこの「公」は、カント的理念から言えば、理性の「私的使用」でしかない。カントは、『啓蒙とは何か』の中で、理性の「公的使用」は、あらゆる党派性を超えた世界市民の立場からなされるものであるとした。世界平和を求めるカント的理念から見れば、和辻哲郎もまた哲学する自らの理性を帝国のために私的に行使したのである。

 ところでアイヒマンの職務でもあったユダヤ人排撃の背景に、アーレントは「モッブ」と呼ばれる群衆が存在したことを指摘している。第一次世界大戦以前のヨーロッパを支配してきた十九世紀的な社会秩序が解体することで零落し没落していった多くの人々が出現する。その階級的関係から脱落した余剰の人々がモッブである。彼等は、その鬱積する不満をぶつけるスケープゴートとしてユダヤ人を見出した。アーレントは、ヨーロッパ諸国を席巻した当時の反ユダヤ主義的傾向の担い手であり帝国主義の走狗でもあった新たな階級関係から没落した大量の社会的な落伍者を見出している。アイヒマンの出自もまた没落した中流家庭であった。とはいえ、ナチスの綱領の内容も十分に知らずにその党員となったものの熱心な反ユダヤ主義者ではなかったようである。ただ官僚システムの歯車として、粛々とユダヤ人の絶滅という最終決定を遂行する歯車の一つにすぎなかった。そして近代社会の凡庸な悪を表現するアイヒマンは、裁判で絞首刑となった。

 現代の日本ではバブル崩壊以降、一億総中流幻想が急速に解体した。幻想の解体は、経済構造の劇的変化による当然の帰結である。このような状況下でも、先の衆院選・参院選・都知事選などの投票率は、一向に上がる気配を見せなかった。多くの人々は、国民の期待や公約を反古にすることを辞さない現在の政党政治にもはや期待しないのかも知れない。 
 他方で多くの人々はオリンピックという祭典に一喜一憂し、きたるべきオリンピックに期待しているように見える。あるいは相変わらずサブカル的祝祭に多くの熱量を投じ続けているようにも見える。それらの人にとって、選挙という政治的祝祭より、オリンピックなどのスポーツの祭典やサブカル的祝祭空間のほうが感情的に没入しやすいのかも知れない。
 拙著『ももクロ論』でも述べたが芸能によって切り開かれる祝祭は、人々の不満を解消する社会的働きを持っている。祝祭空間を切り開くスポーツ選手やアイドルたちは、選挙という政治的祝祭に興味を失ってしまった多くの人々の不満を和らげ慰めるささやかな社会的安全弁として機能しているのかも知れない。いわば現代の巨大なスポーツイベントやアイドル消費は、社会的抑圧から吹きあがる感情という蒸気を排出するベントのようなものであろう。
 
 サブカルの祝祭的空間を生み出すアイドルたちも、アイドル戦国時代の中で苦闘を繰り広げている。この3月にももクロが目標である国立競技場へ到達した一方で、メンバー交代を繰り返しながら、過激かつ刹那的なパフォーマンスで人々の耳目を集めてきたBiSが7月に横浜アリーナ(「BiSなりの武道館」と題して)で解散することになった。
 既に解散が決定した彼女達が、つくりだす刹那的な祝祭空間は、ノイズミュージックの世界的演奏家であるJOJO広重・T美川両氏のような異能の人々と融合することによって、かつてないアイドル現象を生じさせ、欧米でも話題になっているようだ。BiS階段のステージでアイドルたちの刹那的パフォーマンスと激しいノイズが共鳴しているさまは、まるで暗黒の祝祭空間である。
 解散に向かって疾走するBiSのステージは、現代日本の社会状況と共振する象徴的出来事のように思える。満たされぬ呪われたモノを噴出させるBiSの舞台は、彼女達を依り代にして、AKB48グループやももクロとは異なる何かを確かに出現させているようだ。

 

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害