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第44回 D.ヒュームとA.スミス 仲正昌樹

仲正昌樹

cameraworks by Takewaki
                           

 一八世紀半ばから一九世紀初頭にかけて、スコットランドを中心に発展した、スコットランド啓蒙と呼ばれる思想の潮流がある。同時代のフランスの啓蒙主義が、数学や物理学などの自然科学をモデルに人間の生きる社会を単純で明晰な論理で包括的に把握し、人々の欲望が最大限に実現される社会へと再構築しようとする設計主義的で、ラディカルな傾向が目立ったのに対し、スコットランドの知識人たちは、現実の社会における人々の具体的な関係性とその変化の動向を観察し、社会を存続せしめている法則を探究するモラル・サイエンスに取り組んだ。神の意志や自然法則として予め決まった形で与えられる法(自然法)がなくても、自由な諸個人がどのように互いの関係性を規律し、秩序を生み出す法や道徳を作り出すことができるのか、「市民社会 civil society」の本質は何なのかが、スコットランド啓蒙の主要な関心事だった。このグループの最も代表的な知識人がデヴィッド・ヒューム(一七一一―七六)とアダム・スミス(一七二三―九〇)である。
 ヒュームは高校の倫理の教科書、あるいは大学の教養課程の西洋哲学史では、ロック(一六三二―一七〇四)の英国経験論の継承者という位置付けになっていることが多いが、ロックとヒュームの間には二つの大きな違いがある。一つは、社会契約論の系譜に属するロックが自然状態における人々の原初的契約(original contract)(の仮定)に基づいて、市民政府(civil government)の存在を正当化したのに対し、ヒュームがどのような統治の形態であれ、人々の「自発的な合意 voluntary consent」によってスタートしたとは考えられないとして否定したことである。
 「原初的契約」に代わって、彼が正義、所有、法、国家が成立する根拠として引き合いに出すのが、人々の「必要性と利益necessities and interests」、及びそれらに関する「習慣 custom」である。私たちの各々は、自分の「必要性と利益」を満たすべく様々なことをその都度試みる。それらの試みは主として、「必要性と利益」を計算して効率的に実現することを企てる「理性」ではなく、苦痛を避け、快楽を得ようとする「情動 passion」によって導かれる。「情動 passion」に導かれた原初の人間は、他者との事実上の協力・協調行動によって、快楽を得られる経験をするかもしれない。一緒に獲物を捕えて、働きに応じて分けるとか、他人が既に支配しているものには手を出さないとか。他者に対する特定のパターンに従った振る舞いが、「必要性と利益」を充たし、快楽を与えてくれる経験を重ねれば、同じパターンで振る舞うことが「習慣」になり、身に付いていく。
そうやって各人が従っている規則的な「習慣」が次第に安定し、複合的で一貫性のあるものになっていくと、お互いに自分自身も他者と同じパターンの振る舞い方をしていると、どのような便益があるか予期できるようになる。あたかも、どのような状況になれば、どう振る舞うか「合意 agreement」が成立しているかのような様相を呈することになる。無論、どこかの時点ではっきりとした意志表明があったわけではなく、時間をかけて合意があるかのように機能するものができあがってきたわけである。これをヒュームは「黙約 convention」と呼んでいる。
経済学者であり、社会哲学者でもあるハイエク(一八九九―一九九二)は、「市場」は、「自生的秩序」として形成されているという自らの主張の基礎として、ヒュームの黙約論を参照している――ヒュームに倣って、習慣によるルール形成という視点から「市場」を見るハイエクは、各人が、合理的に計算する経済人であるかのように論ずる、新古典派経済学の主流とは一線を画している。また、無知のヴェールという仮想の装置の下での選択という仮想の状況を想定することで、最も弱い立場にある人々の期待便益の最大化を目標とする再分配の原理(格差原理)を正当化しようとするロールズ(一九二一―二〇〇二)を、社会契約論の虚構性という観点から批判するサンデル(一九五三― )は、「必要性と利益」をめぐる「習慣」に注目したヒュームの議論を再考するよう促している。
このように、合理的主体による明示的な合意に代えて、いつ誰と誰の間で成立したのか定めがたいが、「黙約」に注目するヒュームの道徳起源論は、第二点とも関係する。
第二点は、「心 mind」の存在をめぐる問題である。「心は白紙(white paper)」という標語で知られるように、「同一性」「全体/部分」「実体」「神」といった基礎的な概念を含めて、あらゆる「生得概念 innate ideas」を否定したロックであったが、経験、具体的には知覚を通して色、音、匂いなどに関わる各種の単純観念を獲得し、かつそれらについて自己の内で「内省 reflect」する主体としての「心」あるいは「魂 soul」と呼ばれる一つの統合された実体が実在するのを自明の理としていた。それに対し、ヒュームは、私たちが自らの「自己self」と呼んでいるものは、「捉えがたい速さで相互に入れ替わり、絶えまない流れと運動の内にある、様々の知覚の束あるいは集合体以外の何ものでもない」、と述べている。つまり、「私自身」なるものは、絶えずその構成要素が入れ替わっている知覚の集合体としてその都度成立しているだけであって、現に知覚している内容が全て別のものに置き換われば、別の「自己」になっていることになる。
高校の教科書でも、私たちが出来事を認識する際の「原因―結果」の関係は絶対的なものではなく、出来事Aの後に出来事Bが続く自体を繰り返し経験する内に、AとBが習慣によって連合(association)しているだけだというヒュームの議論が紹介されている。ヒュームは因果関係に限らず、あらゆる観念の連合や対象の同一性は、「習慣」によるという見方を取っている。それを、"経験する主体"の「人格的同一性 personal identity」にも応用したのである。
こうしたヒュームの"認識論"のラディカルさは、英米圏の分析哲学的なヒューム解説ではあまり注目されないが、初期のドゥルーズ(一九二五―九五)は『経験論と主体性』(一九五三、七三)で、『人間本性論』(一七三九―四〇)でのヒュームの自己論を精読し、経験する主体はアプリオリ(経験に先行する形で)に存在し、自らの認識の対象を構成する能動的な存在者ではなく、諸知覚の印象や観念が結合した「結果」として生じてくる、受動的で、常に生成途上にある存在者であり、常に自らが「存在」することを常に確認しなければならない、不安定性を抱えていることを示唆した。この見方は、その後の彼の、脱主体化する記号論やラカン批判へと繋がっていく。
 スミスがヒュームと個人的に親交を持ち、『人間本性論』から強い影響を受けたことはよく知られている。『国富論』第四篇第二章の、自分自身の利益の追求だけを意図した諸個人の目的が、「見えざる手 an invisible hand」――「神の見えざる手」ではない――に導かれて、意図せざる目的=「公共善 public good」を推進することがあり得るという有名な箇所は、明確な合意ではなく、慣習による「黙約」によって社会の基礎が形成される、というヒュームの議論の影響を受けていると見ることができる。ハイエクは、スミスをデカルト的合理主義や功利主義のような設計主義的な思想と切り離し、振る舞いのルールの形成をめぐるヒュームの議論に接続する形で、スミスの経済思想を理解すべきだという立場を取っている。
 スミスは、自己の存在を相対化し、全ては「習慣」的な結合に基づくと主張するほど哲学的にラディカルではない。ただし、道徳の起源を、神からの啓示でも、合理的な利害の計算のようなものでもなく、理性による制御を受けない「情動」的なものに求めようとする姿勢はヒュームと共有している。『道徳感情論』(一七五九)でスミスは、「同情 compassion」あるいは「哀れみ pity」の感情に顕著に表れる、特殊な種類の「情動」、「共感sympathy」に焦点を当てる。
スミスの言う「共感」とは、他者が苦痛を感じている、あるいは喜んでいる状態を見たり聴いたりした際に、「想像力 imagination」の働きで、自分自身が同じ状況にあるかのように感じることである。観察対象に生じたのと同じような「情動」が――「理性」が働く以前に――生じるわけである。
ただし、「共感」は完全な一致を意味するわけではない。Aさんの嘆き方と彼の置かれている状況を見て、Bさんはその嘆きに全面的に共感するかもしれないが、この状況での嘆きは不適切であるとか大げさだとか感じるかもしれない。自分の経験に照らして、自分だったらどう感じるかを想像する中で、Aさんのリアクションの「適宜性 propriety/非適宜性 impropriety」を判定するようになる。自他の感情表現にズレがあることを経験する内に、各人は、その時々の自己の情動の状態に従って一貫性のない反応するのではなく、他者の感情表現の「適宜性/非適宜性」についての一定の基準を形成するようになる。いわば、第三者の眼のようなものを備えることになる。それをスミスは「非党派的な観察者 impartial spectator」と呼ぶ。
無論、「非党派的」と言っても、一人一人の心の内で想定される「非党派性」であり、互いの間で依然としてズレがある。どうしても自分自身の「情念」の傾向に引きずられる。しかし、経験を積み重ねる中で、自分の内面だけに存在する「観察者」と、周囲にいる「実在する観察者 real spectator」の見方の違いを認識し、後者に適合するように前者を調整することになる。それによって、各自の「非党派的観察者」の非党派性の度合いは高まり、かつ相互に接近していく。また、次第に社会的な通用性を増していく「非党派的観察者」の判断(=「理性」)が「承認 approve」してくれるように振る舞うことが「習慣」になっていく。
そのようにして身に付いた道徳的性格が、各人の「徳virtue」である。「徳」の中で、最も基本的なのが、他者に実体的な害を与えない、他者の所有や権利を侵害しないという意味での「正義 justice」である。スミスは、「正義」をはじめとする、「非党派的観察者」の承認する種々の「徳」こそが、「法」の根拠であり、かつそうなるのが自然であるとして、その内容に関係なく、政府の作った法に従うことが正義であり、背くことが不正であるとする、ホッブズの議論を否定している。
晩年のハンナ・アーレント(一九〇六―七五)は、独我的になりがちの各人の美的・道徳的判断を同じ共同体に属する代表的他者の視点から補正する「共通感覚(sensus communis)=共同体感覚(gemeinschaftlicher Sinn)」の存在を示唆するカントの議論と、スミスの「非党派的観察者」論を繋げることで、言論活動(action)を軸に展開する、自らの政治哲学の基礎にしようとした。共感する能力を通して、普遍的な承認を得られるような「意見」を自らのものにしようとするからこそ、(暴力や脅しに頼ることなく)他者に語りかけ、説得し、合意形成に営みに意味がある、というわけだ。
同じ「情念」と「習慣」を重視する[人格―道徳]論といっても、自分自身の「必要性と利益」を起点とするヒュームと、他者の快苦への「共感」を起点とするスミスは対極にあるようにも見える。ただ、スミスの議論でも、自己の振る舞いが他者から承認されることによって得られる喜びが、道徳的振る舞いのパターン化を促しているわけであるから、広い意味での「利益」が起点になっていると言えないわけではない。ヒュームが、周囲の環境や他者からの影響に対応した、自己の形成という受動的な面に注目し、スミスが、他者の情動に関心を持ち、自己の内で再現しようとする能動的な側面に注目したと考えれば、両者の議論は相互補完的な関係にある。
狭義の認識論にコミットしていないスミスは明言していないが、予め存在している「自己」が他者の動きに関心を持った後に、「共感」が作動するのではなく、(理性に制御されることなく)自動的に発動する「共感」に誘導される形で、他者を認識し、その振る舞いを評価する「自己」が形成される、ということかもしれない。だとすると、ヒューム=スミスの[人格―道徳]論は、脱主体化をめぐるドゥルーズ等のポストモダン系の議論と、現代の認知科学が交差する微妙な領域で展開していたことになる。ヒュームとスミス 仲正昌樹

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著者プロフィール

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害