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第33回 利休作「顔回」 菩提寺光世

噫、天喪予。天喪予。
(ああ、天われをほろぼせり。天われをほろぼせり。)
「論語」(先進篇・八)
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時折穏やかな風が住宅街の木々の若葉をすり抜けた。
東京国立博物館までは、地下鉄の根津駅から夫と歩いた。穏やか気分は、過ごした安穏な日々の記憶を想起させる。祖父母揃って共にした最後の食事は、私のドイツ留学を間近に控えた早春、上野の精養軒でのことだった。

祖父母は近畿に居を構えていたが、祖父は仕事の関係で定期的に上京した。古くからの行事やしきたりで生活を送る祖父母の家には一般的な家庭では遠の昔に姿を消したかまどがあり、風呂を焚くための薪割りを祖父は毎朝の水行の後の日課としていた。便利で合理的なものを好む母にとっては息が詰まったのではないか、と思う祖父の暮らしぶりは質素で頑固なものだった。それでも数年に一度は、馴染みの古美術商から知らせがあると祖母を連れ立って長野の小諸に出掛けた。祖母は嫁入り前、手動の蓄音機を持ったお付きの人を連れ立って散歩をしていた、と叔母から聞かされた。嫁ぎ先で大きく変わった暮らしぶりでの小諸旅行は、声を荒げることも口答えする姿もただの一度さえ見せることなく逝った祖母へ、口数が極めて少なかった祖父からの労いだったのかもしれない。陶器に目を凝らす祖父を傍らに微笑み、湯に浸かり手足を伸ばす祖母の姿を想像し、留守を預かる家族は伸びやかな気持ちになった。
上京は祖父の仕事の関係であったかどうか定かではないけれど、あの時も確か小諸の帰りと言っていたので、祖母を連れ立ち私の出発前に会いに来てくれたのだろう。祖母に会ったのは、上野が最後となった。残してくれた言葉は今も忘れてはいない。

国立博物館で催されていた「茶の湯」展では、大陸から朝鮮半島へ渡り日本に入って来た陶器が、茶の湯の文化の元で茶人が陶工に作らせ和物へと展開した様子を、時を追い系統的に展示されていた。「茶の湯」展は、知人から是非と案内された夫から誘われた。ここ数年、同じ人からの案内に導かれ陶芸展に足を運んでいる。今までは一定時期の地域別、または作家の陶芸展だったので、この度の「茶の湯」展は唐物から高麗物、和物へと時代を追った茶の湯の歴史を一斉に通観できる絶好の機会となった。陶器を展覧会で繰り返し眺め、どのような場面で誰が使うために誰が焼いたのかを知りはじめると、次には地域の土やその時代の背景に思いが及ぶ。海を越え渡って来た陶器の薄さと、白や青を帯びた透ける様なガラス質の釉薬に、いかに人びとは心奪われただろう。土や灰に含まれる様々な混合物のなかから金属成分を抽出し、色むらさえない均一の白磁や青磁がいかに作り出されるのか。陶工の技法と卓越した技術への驚きは、海の遥か先の見知らぬ異国への憧憬を募らせたことであろう。実物を一度は見たいと思っていた曜変天目に、偶発の面白さを感じた以上の印象を私には持てずにいた。漆黒の宇宙や星が瞬く天体を重ねることは、私には出来なかったが、偶発に取り付かれ再現を繰り返し試みる陶工の姿や時の権力者が熱望する様を思い描くことは容易だった。陶器は一人が使う道具を超え多くの人びとを驚かせ、力を誇示するエンブレムにもなったのだろうか。

一方、茶の湯のもとで、一人の客人の手のひらのなかでその器の解釈へと向かわせたのが、利休であったと言えるだろう。エンブレムのように広きに渡る多くの人々に対し共通価値を与える器としてではなく、ひとりの心のなかで深まって行く器のあり方を提示したのではないか。選ばれるのは茶人の眼に適った迎える客人のためのイマココの一期一会の器である。織部の前衛も決して驚かせようと奇をてらわれたものではなく、むしろ奇をてらい技巧を凝らす概念を解体させる前衛ではなかったか、と私自身に問いかけてくる。

利休創意の作とされるひょうたんの花入れの前で思わず足を止めた。
瓢花入 銘「顔回」。横にはこの作品に添えられた書状が展示されている。利休の書状はどれもユーモアを感じさせるものであったが、でもなぜ「顔回」と銘されたのだろう。赤みを帯びた焦茶、両手のなかに収まるほどの丸みの花入れ。切り口は何ら施しを受けぬままに切り取られている。花入れに仕上がったひょうたんに、侘び寂びと表現されるような寂情はなく、ぽってりとした温みには、どこかうっかりものに対して持つ安堵感を感じる。と同時に、手を加えることを拒否し、余計なもの、無駄な施しの一切を許さぬ緊張感を有する佇まい。

顔回。私は論語の手ほどきを子安宣邦氏から受けている。孔子は人生の晩年で自分より30歳以上若い最愛の高弟、顔回を失ってしまう。将来を嘱望された顔回が逝った3年後に孔子は亡くなった。顔回をなくし、嘆いた孔子の言葉、それが冒頭の「天予を喪ぼせり」である。子安宣邦氏は「思想史家が読む論語」(岩波書店)で、
−「天予を喪ぼせり」とは、孔子が天に訴えかける究極的な挫折の嘆きである。−
と言っている。それは天の確かさを信じ、天に依拠する孔子の姿である。信頼しきっているから「なぜ天が私を見捨ててしまうのか」と顔回の死を嘆き、慟哭すると子安氏は指摘する。

翻訳されれば、全く同じ意味内容の言葉を発していたのではないか、と思えるのが、磔刑に処せられたキリストの叫びである。天を仰ぎ見て、キリストもまた二度繰り返し呼びかける。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」声は響き渡り、大地が震える叫びであったと記される。この嘆きに対する解釈において大変興味深いのは、映画監督イングマール・ベルイマン「冬の光」に登場する背中が大きく曲がった体の不自由な教会守の言葉である。耐えることが出来なかったキリストの苦しみは、肉体の苦しみではなく最期の最期に神を信じきることが出来なかった、不信の苦しみである。と、彼は言うのである。肉体がほろびる直前にキリストは、約束された自らの復活を信じることができなかった。最期に「神に見捨てられた」、と叫ばざるを得なかった。その不信が、キリスト自身をほろぼさせるほどの苦痛を与えた原因に他ならない。神は沈黙のまま応答しない。それがベルイマンの解釈なのだろう。

同じ様な言葉が、一方では信に、他方では不信に根ざしている。

利休の「顔回」が何を込め銘された作品であるか知りようもないが、技巧を凝らさず簡素でありながら他者に安堵感を与え、そして他方では全く逆に、一切の無駄が削り取られたことによって自らを鋭く深化させてゆく、そのような在りようのものとして受取れる作であることは確かであろう。

神職であった祖父は、信に基づき生活を正していたのだろうか。それとも、日々の生活に正しさを課すことで、不信の断絶を試みていたのか。祖母は祖父に、そして祖父が求めた陶器に、何を見ていたか、と私は考えるようになっていった。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ
(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)
「聖書」 マタイによる福音書 第27章・46

参考文献: 『思想史家が読む論語』 子安宣邦 岩波書店

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