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第7回 ワークウェア考

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 "物が人と関わりなく 唯そこにあっても意味がない。どんなものでもそこに人との関わりがあれば いくらかの美しさを感じる。最小限のそういうものだけに囲まれて生活したい。"

 これはスクラップブックの写真家である竹脇虎彦さんの著書『イギリス オーガニック農園への旅』からの一節だ。ご本人から直接話をうかがう機会が得られたので、今回はそのときの対話を中心にまとめ、生活の基礎である衣食住における「衣服」と人との関わりについて考えていきたい。

 まず、竹脇さんが熱い紅茶をいれてくれている間に、ガーデナーとはなにかについて質問することができた。

 「ガーデナーというのは、イギリスでは庭の手入れをする人から野菜をつくる人まで幅広く指していて、一方で動物を飼う人はファーマーと呼ばれている。仕事でやっていても、趣味でやっていても、作業としてのガーデニングをしていれば、みんなガーデナー。」

 そのためガーデナーの職業は "What kind of gardener ?"と尋ねられ、竹脇さんの場合は多品種少量生産を行う"market gardening"と答えるそうだ。さらに庭の奥地に入り込むような興味深い発言がつづく。

 「ガーデンというのは、イギリス人にとっては「自分の場所」という意味がある。自分の好きにしていい、自分がコントロールできる場所。自分が自然のかたちを整える。自分の内面的な部分とかも...。たとえばエリック・クラプトンのレイラが入っているアルバムの最後に《Thorn Tree In The Garden》という曲がある。ソーンツリーというのは「刺のある木」、つまり自分のガーデンに生える刺のある木で、それはおそらく「心のなかにある痛い部分」だろうと。ガーデンには、そういう意味があるものなんだなと思います。」

 自ら手入れし、コントロールし、大事に育てていく「心のガーデン」。刺は無駄な障壁ではなく、自分を自分たらしめる特徴的な一面なのかもしれない。日本語の「農業」からは浮かび上がってこないガーデンの姿を知ったところで、今回の大きな関心である服飾について、その仕事に即して言うならガーデンニングとワークウェアの関係について聞いてみた。竹脇さんは使い古されたBarbour(バブアー)のジャケットを持ってきてこう語る。

 「これはイギリスの雨なら十分にしのげる。洗えないので、一生洗わずに使いつづけるところも面白いなと。泥だらけになっても不思議ときれいになる。とても機能的です。でもバブアーは本当はガーデナーではなくて、ハンターたちのことを考えてつくられています。色は獣に見つかりづらいし、ここには獲ったウサギとか鴨とかを入れられて...」と彼はジャケットの内側についたポケットを示し、簡単に外してみせた。また、しゃがんだときに土に触れてしまう裾の箇所には、汚れに強い裏地がつけられていて、デザイン性と実用性をうまく兼ね揃えていた。しかし自然の厳しい環境と日々の仕事にさらされては、バブアーといえどもボロボロになってしまわないのだろうか。

 「これは色々と修理してある。イギリスではパーツごとに交換できて、たとえば袖を取り替えて、取り替えたものにも補強するためにここを二重にしたりしている。」

 よく見ると新しいパーツが入り混じり、かなり年季が入っている。また自分でも時おりワックスを塗り込むそうだ。それが古さや汚さといった方向には振れずに、良い味を出して世界に一つのかっこよいジャケットに成長している。ともに働き、何度も直しを加え、人との繋がりが生まれたワークウェアは、どんな見かけになっても"良さ"を増してゆく。ごわごわした固い印象とは裏腹に、肌に馴染んだバブアーの生地はとてもしっとりとしている。本で目にした「どんなものでもそこに人との関わりがあればいくらかの美しさを感じる」という一文は、まさにこのことだった。

 バブアーは一般に「王室御用達」(ロイヤル・ワラント)をもらっていたり、名のある俳優や著名人が着ていたりと高級なイメージに包まれているが、そこだけで服飾の価値を判断していては"良さ"は決して見えてこない。ブランドだけでは意味がない。また優れた機能があっても不十分。"竹脇さんのいう美しさ""良さ"はその機能を活かす人間の生きた仕事と重なってはじめて服に宿り始める。バブアーに限らず、ワークウェアというものは「衣」の本質に鋭く焦点をあててくれる。

 一方でバブアーにはおもに水夫、漁師、港湾労働者のワークウェアから、1980年代以降レンジローバーで移動するような階級のカントリーウェアとして受け入れられるようになっていった歴史があると、J.SIMS著『MEN'S FASHION BIBLE』に書かれていた。

 『美術手帖』2009年12月号の川久保玲インタビューと、『Pen』2012年2月号の「コム・デ・ギャルソン特集」を読んでみたらと菩提寺医師から渡され、同時にコム・デ・ギャルソン オム プリュスの93年「脱色」のウール天竺と、94年「縮絨」(しゅくじゅう)のジャケットを見せられた。

 そこで、川久保玲の発言をもとにして、また話を進めていくこととなった。

 まず『美術手帖』で川久保は「反骨精神=戦うのに最高の良い方法はクリエイションの場にある」とし、「戦うには自由がないと戦えません」という。それは「どうしようもない不条理。さらにその上にはびこる権威に対しての戦い」ともいえ、その不条理とは「人間すべてに於いて平等であれば素晴らしいけれども、それはあり得ない。そのどうしようもない不条理」であるとする。よって「私が思う反骨精神とは(中略)――戦いともいえます。だからこそ、自由と反骨精神が私のエネルギー源なのです。」

 そのエネルギーが注ぎ込まれる場を明示するように、『Pen 』で川久保は一番大切なものを聞かれて「仕事」と答えている。「クリエイションとビジネスは別のものではなく、同じひとつのもの」であり、「自分がつくったものに最後まで責任を持つことは、ビジネスにも責任を持つということ」だと述べる。また前掲の『美術手帖』においては、長時間働いていることについて「自分がやることが基本だから、当然のことなのです。"動いている会社"では、誰でもそうではないですか?」と逆にインタビュアーに問いかけている。

 ここからぼくが思うに、仕事とは「食べていくための暴力」を自分に振るうことではなく、逆に生を虐げ抑圧してくるものに対する戦いとして存在し、"ビジネスもクリエイションだ"という姿勢を貫くことで、人々の生全体に「自由」をまとわせていくものなのだろう。

 このことは、たとえそれが昔からのワークウェアであっても関係なく、使い古されてオリーブ色になったバブアーのジャケットと、枯れた緑色に脱色された90年代ギャルソンの服とがどことなく似た雰囲気を醸し出している、と感じられるのも偶然ではないだろう。前述したように、コム・デ・ギャルソン オム プリュスは93年に「脱色」、94年に「縮絨」という技法を用いて、製品を破壊しては構築する"脱構築"的な挑戦をしかけていた。

 そんなことを学びつつ、菩提寺医師から「ほら、事例」と『Pen』のあるページを見せられた。そこには、パリの「コム・デ・ギャルソンフリーク」の男性が「コム・デ・ギャルソンシャツ」と「ジュンヤワタナベ マン」を着て、なんと「ステファノベーメル」の変則フルブローグの靴を履いている写真が紹介されていた。

 西洋の伝統的な製法にならった靴と、反骨精神あふれる現代の服飾とが、見事に組み合わせられていたのだ。それは時代や歴史の文脈を越えても共鳴し合う「自由」があることを、確かに教えてくれているようだった。

つづく

症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害