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第5回 臆病なウサギたちの挑戦

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 不安と葛藤を見据えることから生み落とされる独自の作品、そしてその世界をどこかで受けとめ開花させている誰かの存在、これらの豊かさと優しさに触れて歩きながらも、ふと立ち止まってしまいたくなるときがある。「そうは言うものの、不安を抱える自分はそもそも弱いのではないか?」「できれば感情に動かされずに生きられた方がいいのではないか?」と。特にこの世の中は弱肉強食で成り立っており、自分のようなセンシティブな人間は淘汰されてしまうのではないかと"進化論的"にも考えてしまう。就活をしないで生きているぼくにとっては、この種の迷いは何かにつけて頭をよぎる。

 そんな悩みに陥っているなか、再び菩提寺医師から二冊の本を薦められた。野村総一郎『うつ病の真実』と村井俊哉『人の気持ちがわかる脳―利己性・利他性の脳科学』という本だ。第1回目のエッセイでは学習性無力についての考察を試みたが、今回の本はその問題意識を引き継ぎながらまさに感情と個体の進化生物学的な繋がりを示唆していたので、ここにまとめていきたい。

 強い不安感は先に述べたように足を引っ張り、人を臆病にさせるものだ。これに関連し、本書ではこのような例が挙げられている。「臆病なウサギと大胆なウサギがいるとする。大胆なウサギはキツネが近くにいても、平気で餌を探しに行く。臆病なウサギはキツネが近くにいなくても、めったに餌を探しに行かない。この場合、どっちのウサギが生き残れるか?」こう問われてすぐに思いつくのは、それは平気に餌を探しに行けた方が、生きるに必要なエネルギーが手に入るのだから有利だろうという発想だ。だが、こう続く。「キツネがたくさんいるような環境では大胆なウサギはキツネに食べられてしまう可能性が高く、今度は臆病なウサギが生き残るのに有利となる。さて、それでは現実にはどうか?」

 いま、ウサギはとても臆病な動物であり、大胆なウサギは「淘汰」されたといえる。つまり自然は"臆病なウサギ"に軍配を上げたのだ。ここに「不安」と「個体」をめぐる進化生物学的な痕跡がある。やっかいな不安感は「適者生存」の結果、残っていると考えられよう。不安を感じないような人間は将来の危機に備えず、実際に回避しなかったため、とっくの昔にいなくなってしまった。不安を感じる特性が生存に有利に働いたように、ぼくたちの「心」は進化してきた。

 しかし現実では強い不安感で緊張したり調子を崩したりして、日常生活に支障をきたしてしまうことが多くある。これは、かつては適応的だった不快感情が現代においては環境に馴染めず裏目に出ているからだと指摘されている。なんと人間の遺伝子が最も適応していた時代は百万年以上前だという。満員電車に押し込まれ、デスクワークに追われる日々などは当然想定していない。文字通り生きるか死ぬかという暮らしが遠ざかった代わりに、いらぬときに不安が現れその効用は伴わない場合が増えてきた。

 とはいうものの、この知見は「絶対的に不安は異常」といった考え自体は覆す。たとえば「パニック障害」という疾患がある。飛行機や新幹線に乗っているとき、突然に動悸や呼吸困難に襲われる症状(いわゆる「パニック発作」)が出るのだが、これは遺伝子が「こんな危険な乗り物はない」と体に警告しているとも受け止められる。その意味で、「理性」よりも「感情」の方が生物的に正直で賢いといえる。少なくとも、"感情は理性に劣った機能"だとか、"弱いものに訪れる気の迷い"だとかいう見方は間違いだ。むしろ、「不安に感じる身体」の繊細さやきめの細かさをうまくコントロールしながら、そのせっかくの"高機能"を引き出すべきだと思う。また就活の話題に結びつければ、「知名度や給料で判断したけど本当にこの会社でいいのだろうか」「受験のように集団で突き進んでいくノリがなんとなく怖い」という不安感は、"臆病なウサギ"が将来起こりうる危機を察知している姿に見える。その一方で、「大きいことはいいことだ」「それ以外は自然淘汰されて当然」と権威や組織を盾に安住している者こそ、"大胆なウサギ"として淘汰される運命にあるのかもしれない。

 それでもなお "臆病なウサギ"の生存に異を唱える人もいるだろう。人間社会の自然状態は「万人による万人の闘争」(ホッブズ)であり、人類史はこの関係を軸に築かれてきたのだと。しかし近代以前にさかのぼった長い歴史を紐解けば、まったく逆の関係が浮かび上がってくる。人類は奪い合うことではなく、与え合うことで生存戦略を立ててきたのだ。それを今にも伝える一例として、前回に続き文化人類学の成果を引こう。ブロニスワフ・マリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で紹介して有名になった、トロブリアンド諸島の「クラ交易」というものがある。この交易では、日常ではまったく使用されることのない「ソウラヴァ」という赤い貝の首飾りと、「ムワリ」という白い貝の首飾りが、クラ・パートナーと呼ばれる交易相手に受け渡されていく。

 その交易はこのようにして行われる。まず、ソウラヴァのもらい手がカヌーを一年近くかけて作り上げる。カヌーが完成したら、パートナーの島を目指して航海に出る。二、三日の航行でようやく相手の島にたどり着くと、パートナーの盛大なもてなしが待っている。祭りのあと、パートナーからソウラヴァを受け取り、再び航路で自分の島へ帰っていく。半年後、今度はソウラヴァを与えた方がムワリをもらいに航海に出ていく...。この交易が何世代にも渡って繰り返されており、ソウラヴァは時計回りに、ムワリは反時計回りに諸島間を巡り続けている。

 なぜこのような交易が必要なのか。それは海によって隔離された島々は、自分たちの社会だけでは生産が止まってしまう恐れに絶えず脅かされているからだ。クラ交易で他の島と定期的に交流しておけば、部族間で結びつきが生まれ、外部から必要なときに人や物などを手に入れることができる。彼らはソウラヴァとムワリを与え合うことで互いに平和な関係を張り巡らし、自らの共同体の存続をうまく図っているのだ。(マルセル・モースはこれを「贈与経済」と位置づけている。)つまり、交換をコミュニケーションとして用いて利他的に振る舞うことが、自分たちの生存にとっても合理的となっている。

 ここで観察された社会は西太平洋の環境によるものかもしれないが、「人間は放っておけば生存のために争い合う生き物だ」というカンタン系の思考の誤りを突くには十分である。またこうも言えるだろう。"臆病なウサギ"は弱いからこそ助け合うことができた。これも"大胆なウサギ"より生き延びることに成功した秘訣の一つではないかと。

 不安感は恥じることではないこと、また必ずしも闘争状態が人間の生きる基盤ではないことが、(今回取り上げた本によると)進化生物学的にも文化人類学的にも明かされてきた。この道は危ない気がすると"弱い体"が感じ、同じような仲間たちと協力して「脱出」や「越境」に向かう行動をとるのは決して無謀ではなく、個体が生き残るための極めて現実的な選択として目に映る。まさに激変下と呼べる現代社会において、ぐらぐらと揺らぐ枠組みは「キツネがめったにいない環境」なのか「キツネがたくさんいる環境」なのかを判断する必要があるだろう。そして"弱さ"を抱える"臆病なウサギ"にとってそれは歴然としており、生き残るチャンスが与えられているのだと思う。

つづく

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症状の事例

  1. うつ病
  2. SAD 社会不安障害・社交不安障害
  3. IBS 過敏性腸症候群
  4. パニック障害